第4話:夜を護る灯火のように
鉄と乾いた血の匂いが、まだ残っていた。
馬の息が静かに漏れ、鎧の金具がかすかに触れ合う音が、戦の終わりを告げる。
太陽が山の端に沈むと、戦場の熱は嘘のように消えた。
風が音を奪い、静寂だけが広がる。
……恐ろしいほどに澄んだ静寂だった。
夜の移動は危険だ。
とくに──今は。
国境を越えたばかりの帝国領で、急遽、野営を行うこととなった。
帝国騎士たちは手際よく陣を張り、焚き火を起こし、物資を下ろしていく。
その動きには無駄がなく、王国騎士とはどこか違う、軍隊としての整然さがあった。
「姫様、ご不便はございませんか。」
「大丈夫よ。ありがとう。」
馬車の中で待機しながら、心配そうに覗き込む侍女へ微笑み返す。
昼間の戦で震えていた彼女は、まだ青ざめたままだ。
それでも、私を案じる声を出す。
──その優しさが、胸に痛い。
焚き火の光が、夜を払いきれずに揺れていた。
騎士たちが低い声で指示を交わし、時おり鎧がかすかに鳴る。
それ以外は、風が草を撫でる音と、遠くの馬のいななきだけ。
夜の野営地は、生きているようで、どこか眠っているようだった。
その闇の奥から、声がした。
「王女殿下、焚き火の用意ができました。」
「ひっ……!」
侍女が息を呑む。
戸口の外に立つ黒髪の女騎士──ヴィクトリア。
昼間、あの惨劇を一人で収めた“黒曜の剣聖”である。
彼女は侍女の怯えに気づいたのか、微かに目を伏せた。
「……失礼しました。ただ、夜は冷えます。あなた方も、よろしければどうぞ。」
そう言い残して去る姿は、血に染まった死神ではなく、影のように静かだった。
──慣れている、というのだろうか。
怯えられることに。
胸の奥で、何かが小さく軋む音がした。
⸻
帝国騎士たちは持ち場を離れず、焚き火の輪の外はほとんど闇だ。
夜風が冷たく、湿った土の匂いが衣の裾にまとわりつく。
その中で、焚き火の明かりだけが、人の気配を繋ぎ止めていた。
ひとつの灯火が、闇に押しつぶされそうな心を、かろうじて温めている。
(……あの方は、どこにいるのかしら。)
視線を巡らせ、ヴィクトリアを探す。
近くの帝国騎士たちがこちらに気づき、慌てて駆け寄ってきた。
「騎士様たち、先ほどはありがとう。」
「はっ!?王女殿下におかれましては──か、過分なお言葉に感謝いたします!!」
「剣聖様を探しているの。どちらにいらっしゃるのかしら?」
「……あちらですっ!!」
指さされた先に、黒い影が見えた。
焚き火の光が届かぬ馬車の脇、闇と同化するように立っている。
「剣聖様、お隣よろしいかしら。」
「……王女殿下……?」
少しだけ驚いたように眉が動く。
ヴィクトリアが無言で場所を空け、私はその隣──馬車のステップに腰を下ろした。
「昼間はありがとう。それと、先ほどはごめんなさい。」
「任務ですので……先ほど、とは?」
「侍女が貴女に失礼を。まだ動揺していたみたい。だから、ごめんなさい。」
「……お気になさらず。慣れています。」
焚き火の音が、ひときわ大きくはぜた。
炎の弾ける音が、沈黙を埋めるように広がっていく。
どれほど“慣れなければならない”人生を歩んできたのだろう。
その想像が、胸の奥をひどく締めつけた。
やがて、彼女が口を開いた。
「……殿下。剣聖様などとお呼びいただく必要はありません。
どうぞ、“ヴィクトリア”と。」
思わず、微笑みがこぼれる。
「まあ、そう?
なら……わたくしのことも“エレツィア”と呼んでちょうだい。」
「──それは、不敬にあたります。」
間髪入れず、少し硬い声が返ってくる。
やはり、彼女は真面目だ。
「ふふ……では、そのうちにね。」
「……は。」
ヴィクトリアは視線を逸らし、焚き火の炎を見つめた。
橙の光が髪に淡く反射し、黒曜石のような色にきらめく。
しばらく沈黙が流れ、私はふと思い出したように口を開く。
「ねえ、ヴィクトリア。貴女の剣は──綺麗ね。」
「……綺麗?」
「冷たくて、鋭くて、それでも不思議と惹かれてしまう。わたくしは、あの剣の軌跡を──“花”のように美しいと思ったの。」
彼女は静かに目を伏せた。
炎の明かりが頬を撫で、影が落ちる。
「……お言葉ですが、剣に美などございません。
剣は人を傷つけ、奪うもの。真に美しい花と呼ばれるべきは──殿下でございます。」
冷たい、けれどどこか哀しい声。
誇るものなど何もないと、自嘲する響き。
私は小さく息を呑んだ。
わずかな確信とともに、問いかける。
「……ねえ、ヴィクトリア。貴女、あの剣を振るうとき……“痛む”のね。」
風が一筋、焚き火を揺らした。
彼女は何も答えない。けれど、その沈黙がすべてを物語っていた。
「剣が、嫌いなの?」
「……振るわずとも済む時代が来れば、いいと思っております。」
短い言葉だった。けれど、その声は──驚くほど優しかった。
長い戦の果て、何も願うことを許されなかった者が、ようやく口にした祈りのように。
剣を手放せぬ者だけが知る、静かな願いが滲んでいた。
しばらく、焚き火のはぜる音だけが流れた。
「……その時代を作るために、わたくしは帝国に行くのよ。」
「……殿下。」
「大陸に、争いのない季節を──その時は、貴女の剣も、要らなくなるでしょう?」
「……ええ。」
「だから、その日まで──護ってね、ヴィクトリア。」
わずかに息を呑んだ気配があった。
黒曜の騎士は、静かに膝をつき、片手を胸に当てる。
「……この命に代えても。」
炎がぱちりと弾けた。
その一瞬だけ、彼女の赤い瞳が灯火を映す。
闇の中で、それは誓いの証のように揺らめいていた。
「……そろそろお戻りください。夜気が冷えます。」
「ええ。いろいろと不躾に聞いてしまってごめんなさい。──おやすみなさい、ヴィクトリア。」
「……おやすみなさいませ、殿下。」
立ち上がり、振り返る。
焚き火の橙が、彼女の輪郭を淡く照らす。
黒髪の騎士は、ただ静かにそこに立っていた。
闇の中、風に髪をなびかせながら──
その姿が、どうしようもなく、綺麗だと思った。
……あの焚き火のように。
静かで、あたたかくて、確かにそこに在る光。
彼女は、夜を護る灯火だった。




