第33話:神代より ①
ヴィクトリアが目を覚ました翌日。
医務室にはまだ夜露の冷たさが残り、窓から差し込む朝陽が静かな影を落としていた。
身を起こしたヴィクトリアは、深く頭を下げた。
「──あの戦で、皆さまに助けていただいたと伺いました。
……改めて、御礼申し上げます。」
その声は凛としていた。
しかし、震えの色がわずかに混じっていた。
エリアスが穏やかに微笑む。
「どういたしまして。エレの大切な人を護れたなら、私たちの方こそ嬉しいよ。」
王子としての顔ではなく、妹の想い人を案じる兄の表情だった。
「俺も、貴女に命を救われた身です。
……これくらい、ほんのご恩返しですよ。」
リュークスは少し照れたように言い、気恥ずかしさを誤魔化すように笑う。
「ぼくの魔術でも、死んだ人は戻りません。
ですから、次は気をつけてくださいね。」
レベッカは軽口を叩きながらも、声音だけはどこか柔らかかった。
エレツィアが静かに問いかける。
「それで、兄様たちはいつまで帝都に?
王国も、随分長く空けているのでしょう?」
エリアスはわずかに視線を落とし、呼吸を整えてから答える。
「……そうだね。
もう少しだけ滞在するつもりだ。
実は、陛下からの許しも頂いている。」
言葉は軽く聞こえるが、その奥にある気配は硬い。
微笑みの奥で、彼の瞳は別の何かを静かに見据えていた。
⸻
一週間が過ぎた。
皇帝シルヴァ崩御の報は帝都を震わせ、
街は一夜にして黒布に覆われた。
鐘が絶え間なく鳴り響き、兵と文官が城内を駆ける。
国葬と新帝クロイツァーの即位式の準備が、慌ただしく進む。
城は悲嘆と緊張が混在し、戦時中ながら、まるで“戦の前夜”のような空気に満ちていた。
だが、その喧騒の中──ただひとり、時間が止まった者がいる。
“黒曜の剣聖”、ヴィクトリア・ロムルス。
彼女は、剣を握れなくなっていた。
⸻
一行は、城内の一室に集まっていた。
陽光が穏やかに室内を照らし、なだらかな光の帯を作っている。
だが、部屋の中を漂う空気は重く、涼やかな夏の風すら息を潜めた。
「……“呪い”の影響でしょうね。
呪いが、貴女の心に深い傷を残した。」
レベッカの声が低く響いた瞬間、室内の空気が一段重くなる。
ヴィクトリアは視線を落としたまま、静かに息を吸った。
肩が小さく震える。
「……はい。
あの夢のことは、覚えています。
夢であるのに、あまりにも痛く、苦しく……終わりなき絶望だけがありました。」
声は淡々としているようで、その奥には今にも割れそうな脆さが見えた。
「私は、何も出来なかった。
ただ痛みに泣き叫び、恐怖に震えることしか出来なかった。
剣を握ろうとすると、あの痛みが蘇る……。
──剣を握るのが、怖いのです。」
膝の上の手が震え、指先に力が入らない。
エレツィアはそっとその手を包み、指を重ねて寄り添った。
沈黙が落ちる。
「剣などもう握らずとも良い。魔王如き、俺が殺してくれる。」
腕を組むクロイツァーの声音は低く、
怒りを押し殺した獅子の唸りのようだった。
この“次期皇帝”は、日に何度もヴィクトリアのもとを訪れていた。
レベッカは淡い息を吐き、苦笑しながら首を振る。
「殿下なら本当にやってしまいそうですが──それは出来ません。」
「何故だ?
そういえば、魔術師どのも先の戦で魔王を見逃したと聞いている。」
クロイツァーの眉がひそめられ、青い瞳がわずかに光る。
レベッカは一拍置き、静かに告げた。
「……殺すこと自体は可能です。
ですが、“剣聖以外が魔王を殺した場合”──一年以内に、新たな魔王が必ず生まれます。」
室内の空気が、衝撃に揺れた。
「……何だと?」
「何度も試したのです。
ぼくは魔術だけなら、魔王を凌ぎますからね。」
軽く言いながらも、その金赤の瞳には深い影が宿っていた。
「……それでも完全には滅しきれなかった。
魔王を討ち滅ぼせるのは、“滅魔の剣”を持つ剣聖のみ。
これは神々が定めた“理”。ぼくたちでは破れません。」
エリアスが息を呑む。
「神々……ずいぶん大きな話になったね。」
言葉は軽いが、その目に宿る眼光は鋭い。
クロイツァーは一度大きく息を吸い、レベッカに向き直る。
「魔術師どの。
以前、貴殿の話を“狂人の戯言”と評した。……あれを撤回する。
その上で問いたい。
“剣聖”とは何だ。
“魔王”とは何だ。
俺はこれまで、剣聖とは帝国の役職のひとつだと考えていた。
……だが、そうではないのだな?」
一瞬、レベッカの瞳が、どこか遠くを見据えた。
だが、すぐに視線を戻すと、ゆっくりと場を見渡し、静かに口を開く。
「……お話ししましょう。
世界の始まりのことを。
そして、“剣聖”と“魔王”……。
終わることのない争いの“理”を。」
誰もが息を呑む。
窓から差し込む陽光がわずかに翳り、
部屋に沈黙が広がった。




