第32話:癒やせ、“春風” ②
ヴィクトリアは闇の中で、終わりの見えぬ死の舞踏を続けていた。
剣を振るうたび、痛みが返ってくる。
それは肉体の苦痛ではなく、魂を削り取るような痛みだった。
襲い来る影に、横薙ぎの一閃。
刃は確かに敵を断った──だが同時に、自らの体にも同じ軌跡の痛みが走る。
「ぐっ……うぁぁぁぁ!」
喉が裂けるほどの叫びがこぼれる。
それでも、剣を離さない。
この手を離せば、もう二度と“帰る”ことはできない。
(あたしは、帰る……帰らなきゃ……。)
──帰る?
“どこに?”
その疑問に意識が揺らいだ瞬間、腹の奥に灼けるような痛みが走った。
ずくり、と熱が肉を焼き、骨を砕く。
影が握る黒銀の槍が、内臓を貫いた。
「あ、あぁぁぁぁっ!……うぅぅっ!!」
悲鳴が響かない。
声は空気を震わせず、ただ内側で軋む。
涙が頬を伝い、血の味が舌に広がる。
「い、痛い!いたい……っ!う、う……っ。」
剣が手から滑り落ち、闇の底に沈んだ。
金属が落ちる音すら、ここには存在しない。
静寂だけが全てを呑み込む。
だが、痛みは終わらない。
影の群れが押し寄せる。
腕に、胸に、足に、肩に、次々と黒銀の槍が突き立つ。
「あ、ぅあ……!いたい、いたいよ……!
だ、だれか……!だれか……たすけて……!
いや……!いやぁ……!!」
もはやそこに、“剣聖”の姿はなかった。
ただ痛みに怯え、泣きじゃくる、ひとりの少女がいた。
影の群れが取り囲み、その姿を嘲嗤う。
乾いた金属がこすれるような、ひび割れた笑い声。
そして、影のひとつが黒銀の槍を掲げ、
心臓に突き立てようとした──その瞬間。
──緑の光が、闇を裂いた。
眩い奔流が走り、影を吹き飛ばす。
暗闇の中に、風が生まれる。
優しく、あたたかい風。
痛みが少しずつ、薄れていく。
「……え……?」
ヴィクトリアが、涙に濡れた顔を上げる。
光が漆黒を焼き払い、淡い花の香りが漂った。
……冬の底に、春が息づくように。
身体を包む光が、優しく脈打つ。
突き刺さっていた黒銀の槍が音もなく崩れ、冷たい闇が遠ざかっていく。
指先が震え、温もりを取り戻していく。
花弁が舞う。
それはどこからともなく現れ、光の粒となって降り注ぐ。
彼女の髪を、肩を、身体を。
まるで抱きしめるように。愛おしむように。
その中で、声が響いた。
『ヴィクトリア。』
鈴のように澄んだ声。
その音を、ヴィクトリアは知っていた。
何度も耳にした、愛しい声。
「あ、あぁ……!」
震える手が、光の方へ伸びる。
それは逃避ではなく、希望の動きだった。
帰らなければならない。
あの声の元へ。
あの温もりの場所へ。
──帰る。
“どこに?”
決まっている。
“彼女の元へ。”
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薬草の匂いの奥に、微かに春の花の香りが混じっていた。
ヴィクトリアが目を開けたとき、外はまだ深い闇に包まれていた。
夜の静けさが部屋を満たし、遠くで篝火がぱちりと爆ぜる音が聞こえる。
あの戦から、どれほどの時が経ったのかは分からない。
身体を起こそうとすると、不思議なほど軽かった。
まるで、長く背負っていた鎖がどこかで解け落ちたように。
ふと視界の端に、人影が映る。
その影が一歩、また一歩と近づき──
次の瞬間、視界が金糸の輝きに染まり、身体が温もりに包まれた。
「ヴィクトリア……!ヴィクトリア……!!
目が覚めたのね、良かった……!本当に良かった……!!」
エレツィアの声が震える。
頬を伝う涙が灯火の光にきらめき、背中に回る手が細かく震えていた。
その姿を見て、ヴィクトリアは静かに微笑む。
「……ただいま戻りました、エレツィア様。」
抱き返した腕に力を込める。
しかし──
「ばか!!!」
鋭い声が室内に響いた。
呆気に取られ、思わず腕を離す。
目の前の姫が、怒りと涙で頬を紅潮させていた。
「ばか!ばか!……無事に戻ってと言ったのに!
無茶をして、大怪我をして、挙げ句には呪いにまでかかって!
兄様が、リュークスが、レベッカさまがいなかったら……死んでいたのよ!
ばか、ばか……ヴィクトリア、おおばかよ……!
貴女まで……私を……置いていかないで……。」
紫水晶の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちた。
嗚咽が零れ、静かな夜気に溶けていく。
ヴィクトリアは、そっと手を伸ばした。
その涙を拭い、硬い声で囁く。
「……申し訳ありません。エレツィア様。」
「許さないわ。」
エレツィアは顔を上げ、涙に潤んだ目でまっすぐに見つめ返す。
「傍にいて。抱きしめて。私が満足するまでよ。
それまで、絶対に許さないんだから……。」
ヴィクトリアはその瞳を見つめ、静かに頷いた。
「……はい。」
ふたりの間に、言葉より深い沈黙が落ちた。
夜の闇が、夜明けを待つように、ゆっくりと薄れていく。
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「──沈め、“静寂”。
……ふたりにしてあげましょうか。」
レベッカが指先で空をなぞる。
音が消える。
無音の魔術が展開し、外の喧騒が遠のいていく。
「レベッカ殿、これは便利な魔術だね。密談に最適じゃないか。」
エリアスが小声で笑った。
「……俺も一言、物申してやりたいが……!」
「皇太子殿下、どうか落ち着いてください!剣聖どのは病み上がりです!」
「ふふ……これからも、時間はあります。
今晩はお開きにしましょう。」
目をやわらかく細め、レベッカがそう締めくくる。
蝋燭の灯が小さく揺れ、部屋の空気がゆるやかに緩んだ。
こうして、血と悲劇に染まった長い夜が、ようやく終わりを告げた。
帝都を渡る夏の夜風の中には、
春のそよ風のような、やわらかな気配が静かに混ざっていた。
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第三章 影と炎の鎮魂歌 完
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