第32話:癒やせ、“春風” ①
闇の中にいた。
上下も、遠近も、何も分からない。
風は吹かず、音もなく、世界の全てが息を潜めていた。
ただ、果てのない漆黒だけが広がっていた。
冷たい闇は底の見えない湖のようで、身じろぎひとつにも重さがあった。
「ここは……?私は……帰らねば……。」
声を出しても、響きは返らない。
言葉は闇に溶け、形も残さず消えていく。
それでも、足を動かす。
鉛のように重い。
それでも──歩かねばならなかった。
一歩、また一歩。
足音はない。
ただ、静寂の中に、自分の存在を確かめるかのように進む。
どれほど歩いたのかも分からない。
時間という概念はここにはなく、
闇が衣のようにまとわりついて、心までも沈めていく。
やがて、闇の中にひとつの影が浮かび上がった。
戦場で幾度となく斬り伏せてきた、ノーレの鎧。
ノーレ兵だった。
「……っ!」
反射的に剣を抜く。
金属の音もなく、刃は空気を裂いた。
影は喉元から血を噴き、音もなく崩れ落ちた。
だが次の瞬間、自身の喉が裂かれたような激痛に襲われる。
「ぐぁ……っ!」
膝が折れ、呼吸が詰まる。
冷たい痛みが身体の内側から這い上がり、視界が白く滲む。
だが、止まることはできなかった。
剣を握り直す。その手に血が滲もうとも。
──闇が動いた。
漆黒の空に、無数の影が立ち現れる。
ノーレ兵、王国騎士、暗殺者、そして魔族。
過去に斬り伏せてきた者たちの幻影が、形を成していた。
ヴィクトリアは息を荒げながら、剣を握り直す。
次から次へと押し寄せる影を斬り伏せた。
だが、斬るたびに、自らの体に痛みが走る。
胸が裂け、腕が焼け、喉が潰れ、腹が穿たれる。
(痛い……!痛い……!痛い……!)
影は尽きない。痛みも止まらない。
闇は終わらず、ただ、永遠に続いていた。
(誰か……!)
その想いは声にもならず、
闇の中に吸い込まれていった。
応える者は、どこにもいなかった。
⸻
宰相の叛逆、そして皇帝崩御の報せは、
深夜の帝城を雷のように駆け抜けた。
篝火が焚かれ、通路の隅々まで光が行き渡る。
文官も女官も兵士も、誰もが駆け回っていた。
城そのものが巨大な心臓となり、
恐慌と混乱を鼓動のように打ち鳴らしている。
そのただ中で、本来もっとも多忙であるはずの“次期皇帝”は、医務室にいた。
クロイツァーは動かない。
その視線は、眠る剣聖から離れなかった。
レベッカが、少し呆れたように肩をすくめる。
「殿下……。彼女は、ちゃんと起こしますよ?」
「いいや。」
腕を組んだまま、クロイツァーは静かに言った。
「例え殺されようと、俺はここを動かぬ。
これが目を覚ますのを、この目で見届けるまではな。」
その声は低く、鋼のようだった。
戦場で命令を下すときの声とは違う。
どこか、祈りにも似た響きを帯びていた。
「……クロイツァーさま。
ヴィクトリアの何が、あなたをそこまで縛り付けるの?
大切な配下というには、少し違うように見えるわ。」
エレツィアの問い。
その声音に責める色はなく、ただ純粋な疑問が浮かんでいた。
その問いに、クロイツァーの青い瞳が一瞬揺れ、視線を伏せた。
沈黙が落ち、遠くの篝火の音だけがかすかに響く。
やがて、低く、重い息を吐く。
「……黒曜は、皇帝の娘だ。
俺にとっては、腹違いの妹にあたる。」
「えっ──!?」
エレツィアの驚きが、部屋の空気を揺らす。
その場にいた誰もが息を呑んだ。
クロイツァーの声音は変わらず、淡々と続ける。
「これの母は、俺の侍女であった。
その目の色、その眼差しは忘れられぬ。……瓜二つだ。
皇帝も、それを分かっていたはずだ。
だからこそ、最期にこれの名を呼んでいた。」
「待って。クロイツァーさま、そのことをずっと知っていたの?
なぜ、ヴィクトリアに……何も言わなかったの。」
「……言えるものか。
『貴様は皇帝がスラムに棄てた命だ』と告げろと?──冗談ではない。
本来ならば、墓まで秘すつもりだった。」
吐き捨てるような声。
だが、その奥にあったのは怒りではなく、悔恨の響きだった。
「……俺が動かぬ理由は分かったな。“治療”を続けよ。」
帝国の獅子が唸りを上げた。
もはや口を挟むことは許さぬという、無言の威圧。
場を、重い沈黙が包んだ。
レベッカは軽く息を吐き、空気を切るように軽く声を上げた。
「承知しました。では、始めましょう。
……妃殿下、貴女はどのように魔術を使われますか?」
「えっ……?そうね……。
手をかざして、相手のことを想うの。
“痛みが消えますように”、“怪我が治りますように”。それだけよ。」
「なるほど。それで術が発動するなら天性の才がありますね。
ですが、それだけではまだ足りません。……ぼくがお手本を見せましょう。」
レベッカはヴィクトリアの方へ手をかざした。
「──癒やせ、“春風”。」
緑の光が奔り、剣聖の身体を包む。
空気が震え、やわらかな花の香りが広がる。
夏の夜気を押しのけるように、春の風が流れ込んだ。
「これが……“魔術”か。」
クロイツァーの声に、かすかな驚きが滲む。
しかし、程なくしてレベッカは首を振る。
「ああ……やはり、ぼくでは駄目ですね。」
ヴィクトリアの顔色は変わらない。
額に汗が滲み、時折、苦痛の呻きが漏れる。
「では──妃殿下、お任せします。
詠唱は『癒やせ、“春風”』です。」
「レベッカさま……でも……怖いの。
もしも、私の力が足りなかったら。
想いが足りずに、ヴィクトリアの心に、触れられなかったら……。」
エレツィアの瞳が不安に揺れる。
「絶対にできる!」
そこに、リュークスの声が重く響く。
「世界で一番剣聖どのを想ってるのは、お前なんだろ!
お前に無理なら、誰にも無理だ!」
「そうさ。それにエレの力は本物だ。
きっと、彼女の心にも届く。」
エリアスが優しく微笑む。
クロイツァーが静かに言葉を重ねる。
皇太子としてではなく、妹を案じる兄としての響き。
「エレツィア。ヴィクトリアを……頼む。」
「深く、強く、彼女を想ってください。
それが心を開く鍵です。」
レベッカの声は、穏やかで、確信に満ちていた。
エレツィアは目を閉じ、静かに頷いた。
「私の力は小さいけれど……。
それでも。ヴィクトリアへの想いだけは、誰にも負けない。
届いて。彼女の元まで──!」
紫水晶の瞳を開き、最愛の人をまっすぐに見据える。
両手をかざし、唇が震える。
「──癒やせ、“春風”!」
次の瞬間、光が溢れた。
緑の奔流が、部屋を満たした。




