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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第三章
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第32話:癒やせ、“春風” ①

闇の中にいた。

上下も、遠近も、何も分からない。

風は吹かず、音もなく、世界の全てが息を潜めていた。


ただ、果てのない漆黒だけが広がっていた。

冷たい闇は底の見えない湖のようで、身じろぎひとつにも重さがあった。


「ここは……?私は……帰らねば……。」


声を出しても、響きは返らない。

言葉は闇に溶け、形も残さず消えていく。


それでも、足を動かす。

鉛のように重い。

それでも──歩かねばならなかった。


一歩、また一歩。

足音はない。

ただ、静寂の中に、自分の存在を確かめるかのように進む。


どれほど歩いたのかも分からない。

時間という概念はここにはなく、

闇が衣のようにまとわりついて、心までも沈めていく。


やがて、闇の中にひとつの影が浮かび上がった。

戦場で幾度となく斬り伏せてきた、ノーレの鎧。

ノーレ兵だった。


「……っ!」


反射的に剣を抜く。

金属の音もなく、刃は空気を裂いた。


影は喉元から血を噴き、音もなく崩れ落ちた。


だが次の瞬間、自身の喉が裂かれたような激痛に襲われる。


「ぐぁ……っ!」


膝が折れ、呼吸が詰まる。

冷たい痛みが身体の内側から這い上がり、視界が白く滲む。


だが、止まることはできなかった。

剣を握り直す。その手に血が滲もうとも。


──闇が動いた。


漆黒の空に、無数の影が立ち現れる。

ノーレ兵、王国騎士、暗殺者、そして魔族。

過去に斬り伏せてきた者たちの幻影が、形を成していた。


ヴィクトリアは息を荒げながら、剣を握り直す。

次から次へと押し寄せる影を斬り伏せた。

だが、斬るたびに、自らの体に痛みが走る。

胸が裂け、腕が焼け、喉が潰れ、腹が穿たれる。


(痛い……!痛い……!痛い……!)


影は尽きない。痛みも止まらない。

闇は終わらず、ただ、永遠に続いていた。


(誰か……!)


その想いは声にもならず、

闇の中に吸い込まれていった。

応える者は、どこにもいなかった。



宰相の叛逆、そして皇帝崩御の報せは、

深夜の帝城を雷のように駆け抜けた。


篝火が焚かれ、通路の隅々まで光が行き渡る。

文官も女官も兵士も、誰もが駆け回っていた。

城そのものが巨大な心臓となり、

恐慌と混乱を鼓動のように打ち鳴らしている。


そのただ中で、本来もっとも多忙であるはずの“次期皇帝”は、医務室にいた。


クロイツァーは動かない。

その視線は、眠る剣聖から離れなかった。


レベッカが、少し呆れたように肩をすくめる。

「殿下……。彼女は、ちゃんと起こしますよ?」


「いいや。」

腕を組んだまま、クロイツァーは静かに言った。

「例え殺されようと、俺はここを動かぬ。

これが目を覚ますのを、この目で見届けるまではな。」


その声は低く、鋼のようだった。

戦場で命令を下すときの声とは違う。

どこか、祈りにも似た響きを帯びていた。


「……クロイツァーさま。

ヴィクトリアの何が、あなたをそこまで縛り付けるの?

大切な配下というには、少し違うように見えるわ。」


エレツィアの問い。

その声音に責める色はなく、ただ純粋な疑問が浮かんでいた。


その問いに、クロイツァーの青い瞳が一瞬揺れ、視線を伏せた。

沈黙が落ち、遠くの篝火の音だけがかすかに響く。


やがて、低く、重い息を吐く。


「……黒曜は、皇帝の娘だ。

俺にとっては、腹違いの妹にあたる。」


「えっ──!?」


エレツィアの驚きが、部屋の空気を揺らす。

その場にいた誰もが息を呑んだ。

クロイツァーの声音は変わらず、淡々と続ける。


「これの母は、俺の侍女であった。

その目の色、その眼差しは忘れられぬ。……瓜二つだ。

皇帝も、それを分かっていたはずだ。

だからこそ、最期にこれの名を呼んでいた。」


「待って。クロイツァーさま、そのことをずっと知っていたの?

なぜ、ヴィクトリアに……何も言わなかったの。」


「……言えるものか。

『貴様は皇帝がスラムに棄てた命だ』と告げろと?──冗談ではない。

本来ならば、墓まで秘すつもりだった。」


吐き捨てるような声。

だが、その奥にあったのは怒りではなく、悔恨の響きだった。


「……俺が動かぬ理由は分かったな。“治療”を続けよ。」


帝国の獅子が唸りを上げた。

もはや口を挟むことは許さぬという、無言の威圧。

場を、重い沈黙が包んだ。


レベッカは軽く息を吐き、空気を切るように軽く声を上げた。


「承知しました。では、始めましょう。

……妃殿下、貴女はどのように魔術を使われますか?」


「えっ……?そうね……。

手をかざして、相手のことを想うの。

“痛みが消えますように”、“怪我が治りますように”。それだけよ。」


「なるほど。それで術が発動するなら天性の才がありますね。

ですが、それだけではまだ足りません。……ぼくがお手本を見せましょう。」


レベッカはヴィクトリアの方へ手をかざした。


「──癒やせ、“春風”。」


緑の光が奔り、剣聖の身体を包む。

空気が震え、やわらかな花の香りが広がる。

夏の夜気を押しのけるように、春の風が流れ込んだ。


「これが……“魔術”か。」

クロイツァーの声に、かすかな驚きが滲む。


しかし、程なくしてレベッカは首を振る。

「ああ……やはり、ぼくでは駄目ですね。」


ヴィクトリアの顔色は変わらない。

額に汗が滲み、時折、苦痛の呻きが漏れる。


「では──妃殿下、お任せします。

詠唱は『癒やせ、“春風”』です。」


「レベッカさま……でも……怖いの。

もしも、私の力が足りなかったら。

想いが足りずに、ヴィクトリアの心に、触れられなかったら……。」


エレツィアの瞳が不安に揺れる。


「絶対にできる!」


そこに、リュークスの声が重く響く。

「世界で一番剣聖どのを想ってるのは、お前なんだろ!

お前に無理なら、誰にも無理だ!」


「そうさ。それにエレの力は本物だ。

きっと、彼女の心にも届く。」

エリアスが優しく微笑む。


クロイツァーが静かに言葉を重ねる。

皇太子としてではなく、妹を案じる兄としての響き。

「エレツィア。ヴィクトリアを……頼む。」


「深く、強く、彼女を想ってください。

それが心を開く鍵です。」

レベッカの声は、穏やかで、確信に満ちていた。


エレツィアは目を閉じ、静かに頷いた。


「私の力は小さいけれど……。

それでも。ヴィクトリアへの想いだけは、誰にも負けない。

届いて。彼女の元まで──!」


紫水晶の瞳を開き、最愛の人をまっすぐに見据える。

両手をかざし、唇が震える。


「──癒やせ、“春風”!」


次の瞬間、光が溢れた。

緑の奔流が、部屋を満たした。

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