第30話:歴史を見届ける者 ①
剣聖が帝都に護送されたのは、戦から十日後のことだった。
彼女の容体は安定したとは言い難く、レベッカが時折癒しの魔術をかけながら、慎重に護送を進めていた。
夏の風がわずかに熱を帯び、帝都の石畳を撫でる。
街並みは静まり返り、灯火の列だけが夜を支えていた。
──城門前。
夕暮れを過ぎ、藍色に染まる空の下、松明が揺らめく。
光に照らされた門の前で、エレツィアが立っていた。
外套も羽織らず、ただ門の向こうを見つめる。
その瞳には、夜よりも深い不安が宿っていた。
車輪の音が止む。
ゆっくりと馬車の扉が開かれ、眠るヴィクトリアが運び出された。
その姿を見た瞬間、エレツィアの顔から血の気が引く。
「ヴィクトリア……!なんてこと……!」
声が震えた。
膝が崩れそうになるその肩を、エリアスが支える。
戦場で兵の命を預かったその手が、今は妹を守るように添えられた。
「エレ、落ち着いて。彼女は大丈夫だ。
レベッカ殿が治療してくださっている。」
「兄様……!ですが……!
こんなに顔色も悪くて……苦しそうで……っ。」
紫水晶の瞳が潤み、言葉が途切れる。
そのとき、静かな声が夜気を裂いた。
「……披露宴以来ですね、妃殿下。
まずは彼女を、安静にできる場所へ。
その後、容体の説明をしましょうか。」
レベッカの声は落ち着いていた。
冷ややかではなく、理性に律された声が響く。
その調子に、兵も侍女も自然と動き出す。
静かな緊張の中、人々はゆっくりと城内へと進んでいった。
⸻
帝都ではすでに、常備軍からの報告により
“エルスーア第一王子来訪”の知らせが上がっていた。
皇帝は体調を崩しており謁見を見合わせ、
代理として謁見の間に立ったのは宰相だった。
焚かれた香が薄く立ち込め、
絨毯を踏む足音が低く反響する。
声を発する前から、この場の支配者が誰かを知らしめる空気だった。
「……常備軍と剣聖どのの危機を救ってくださったと伺っております。
陛下に代わり、御礼申し上げます。」
宰相の声音は穏やかだが、瞳の奥には計算の光。
年老いた梟が、静かに獲物を値踏みする視線だった。
エリアスはその視線を正面から受け止め、
あえて柔らかな笑みで返す。
「友好国の危機に、お役に立てて光栄です。
……無断越境の件は、お許しいただければ。」
「ほっほ、勿論ですとも。
──して、此度はどのようなご用件で?」
宰相の笑みの裏には、探るような刃が潜んでいた。
室内の空気が静かに張り詰める。
それでもエリアスは肩の力を抜き、
まるで談笑でもしているかのように、自然体を崩さない。
「ひとつは、リュイペの客人のためです。
彼女はエルスーアとリュイペの友好の証として、私と共に戦場へ赴きました。
その後、剣聖どのをここまで看病してくれたのですが、彼女はあくまで王国の客将。
途中で放り出すわけにもまいりません。」
「……ふむ。」
「そしてひとつは、無断越境の件についてです。
同盟関係にない軍が国境を破るということは軽くありませんから。
きちんとご説明する必要があると思い、帝都まで赴かせて頂きました。
──宰相閣下にお許しを頂けたこと、安堵しております。」
「……なるほど。」
宰相の眉がわずかに動く。
その小さな変化を逃さず、エリアスは微かに唇を緩めた。
「──それと、最後にもうひとつ。
この機会に、妹の顔を見たかったからですよ。
披露宴で久しぶりに会って、昔が恋しくなりましてね。」
沈黙。
宰相の瞳がわずかに細まる。
空気がひやりと冷たくなるが、エリアスの声には揺らぎがない。
「ほっほ、ご兄妹の仲がよろしいのは何よりですな。
またいつでも帝国をご来訪くだされ。……それでは、ごゆるりと。」
一礼し、宰相は去っていった。
残された空気だけが、香の煙と共に重く沈む。
エリアスは小さく息を吐き、微笑の裏で瞳の奥を静かに光らせた。
(あれが帝国の宰相か……隠された爪は鈍っていないようだね。
──だが、なんとか役割は果たせそうだ。)




