第3話:沈む夕陽に背を向けて
帝国と王国を結ぶ道は、いまだ血の記憶を洗い流せていなかった。
馬車の車輪が、焦げた大地を軋ませて進む。
かつて戦場だったその街道を、“婚姻の列”が渡ろうとしていた。
王都の外で、王国騎士団の小隊が合流した。
整然と並んだ列。
けれど、どこか張りつめすぎている。
それが緊張なのか、別の何かなのか──
この時の私には、まだ分からなかった。
窓の外に、漆黒の騎士服が揺れる。
黒髪を風に流し、赤い瞳が煌めいている。
その佇まいは、抜き身の刃のように研ぎ澄まされていた。
“黒曜の剣聖”──ヴィクトリア・ロムルス。
(皇太子殿下が信頼を置く方なのね。)
少なくとも、私の命を託すほどには。
帝国には、終戦を望まぬ者たちがいると聞く。
この護衛は、牽制でもあるのだろう。
──だが、婚姻に反対する声は王国にもある。
『“聖女”を帝国に明け渡すなど、断じて認められません!』
教会の大司教が叫んだあの声が、耳に残っていた。
(彼らにとって“聖女”は信仰ではなく、権威の象徴だったものね…。)
平和のために帝国へ嫁ぐというのに、皮肉な話だ。
そんな思考をめぐらせながら、私は静かに空を仰いだ。
灰色の雲の向こうで、かすかに陽が瞬いていた。
⸻
一日目、二日目──道程は穏やかに過ぎていった。
雲間からこぼれる陽の光が街道を染め、かつて戦火に焼かれた大地に、ようやく緑が戻り始めている。
通り過ぎる街々では、人々が道の両側に集まっていた。
手に野の花を持つ者、祈りを捧げる者、ただ黙って見送る者。
そのすべての目に、願いと祈りが宿っていた。
「姫様、どうかお幸せに……」
「戦は……もう終わるのですか?」
その声に、胸の奥がきゅうと締め付けられる。
私は微笑んで頷くしかできなかった。
馬車の窓から手を伸ばすと、小さな子どもが花を差し出した。
泥に汚れた頬。小さな手。
その花を受け取り、そっと包む。
「ええ……もう、大丈夫よ。」
子どもが笑った。
その笑顔を見て、ようやく理解した。
“誰かのために笑う”──この誓いの“誰か”とは、
この笑顔を持つ人たちのことだと。
──この人たちを、護りたい。
もう二度と、戦の炎に晒さない。
馬車が街を離れると、王国騎士の一人が口を開いた。
「……姫様。帝国の旗を掲げて、この地を通るなど、数年前には考えられませんでした。」
「そうね。戦が長すぎたもの。人々もきっと……希望を見ているのかもしれないわ。」
「希望、ですか。」
「ええ。今はまだ脆く、壊れやすいもの。
……それでも、確かに見ることはできる。」
騎士は小さく頷いた。
「……姫様のように仰る方がいれば、この国も救われましょう。」
「ありがとう……でも、救うのはわたくしではありませんわ。あなたたちや、民たちです。」
「……いえ。いいえ。姫様こそが、我が国の“希望”なのです。」
騎士の声音は、祈りのように重かった。
その会話を、黒髪の騎士が静かに聞いていた。
馬上のヴィクトリアが、こちらに目を向ける。
その瞳に、わずかに赤い光が宿った気がした──。
けれど、その意味を私が知るのは、まだ少し先のことだった。
こうして、穏やかな旅路は続いた。
けれど、空の青さがどれほど澄んでいても、
その先に待つ嵐を、誰も知らなかった。
⸻
そして、三日目。
国境の丘陵が見え始めた頃、突然、馬車が止まる。
「どうかしたのかしら?」
窓を開くと、黒髪の騎士が振り向いた。
「殿下、前方に街道を塞ぐ集団がいます。窓から離れ、馬車の中央へ。」
その声音は冷静で、微塵の乱れもない。
私は指示に従いながらも、わずかに外を覗いた。
街道を塞ぐ数十の影。
甲冑と軍馬、槍の群れ──まるで戦場のようだった。
「貴様ら、何のつもりだ!道を開けよ!」
「王女殿下の御前であるぞ!」
王国騎士たちの怒声が飛ぶ。
だが返ったのは、別の怒号だった。
「帝国に魂を売った裏切り者どもめ!」
「“聖女”を我らの手に還せ!」
──教会騎士団。
やはり、来たのね。
婚姻の報せは、王家から王国中央教会のもとに届いていた。
だが、地方の教会勢力の中では、なおも反発が燻っていた。
“聖女”は神の御業の象徴。
その身が帝国に渡ることを、
彼らは“信仰の敗北”と叫んだ。
集まったのは、わずか数十。
けれど、その目は常人のものではなかった。
祈りと呪詛の区別も曖昧な、狂信者の群れ。
幾人かは、手を組み神に祈りを捧げている。
その瞳には、救いではなく炎が宿っていた。
彼らにとって、この襲撃は聖戦だった。
……理屈など通じるはずもない。
「全周警戒!馬車を護れ!」
ヴィクトリアの声が、空を奔る雷鳴のように響いた。
帝国騎士たちが半円を描き、盾を構える。
土を蹴る音、馬の嘶き、鉄の匂い。
次の瞬間、空気が裂けた。
剣戟。
甲冑の擦れる音。
神の名を叫ぶ声。
戦塵が舞い上がり、視界が霞む。
私は震える侍女の手を握りながら、
ただ、嵐が過ぎるのを待った。
やがて音が止む。
静寂。
静かに窓が叩かれ、黒い影が現れた。
土埃のついた頬、汗ひとつない額。
「……お怪我はございませんか。」
「ええ、何事もないわ。ありがとう。」
「街道を開けます。今しばらくお待ちください。」
そう告げて、彼女は馬を返した。
前方には、王国騎士団の隊長格。
ヴィクトリアは、躊躇いもなくその喉元へ剣を突きつける。
「……剣聖殿。これは何の真似だ。」
「馬車へ向かう敵が多すぎた。意図的に流したな。」
「証拠もなく、何を──」
赤い瞳が細められる。
「貴様らからは隠しきれぬ殺気を感じる。王都を出てから、ずっとだ。」
「……」
「油断させ、我らの後背を突くつもりだったのだろう。」
男の顔色が変わる。
沈黙のあと、乾いた笑いが響いた。
「ははは……なるほど、これが“剣聖”か。小娘と思い侮った。」
「……」
「姫様は王国の希望!自らの権威のことしか考えておらぬ教会にも!政略結婚などという茶番を突きつけてきた帝国にも!断じて渡してなるものか!」
「その政略結婚こそが、両国の希望だ。」
「“貴様らの”希望だろうが!!」
怒号が飛ぶ。殺気が満ちる。
剣が抜かれる音。
金属が擦れ、空気が張り詰めた。
ヴィクトリアが静かに命じる。
「──馬車を護れ。私ひとりでいい。」
「殺せ!!!」
二人の騎士が突撃した。
剣が振り下ろされる。
だが──空を切った。
刹那、光。
二人の胴が裂け、馬上から落ちる。
血飛沫すら風に溶け、音もなく消えた。
残る者たちが息を呑む間もなく、
黒髪の騎士が動いた。
剣が舞う。
音が遅れて届く。
一瞬の静寂。
そして、再び命が散った。
一人。
また一人。
斬撃は流麗で、残酷なまでに正確だった。
ひと振りごとに鈍色の光が閃き、命が消える。
それは戦ではなく、舞踏だった。
死が、踊っていた。
流れるように、踊るように、
淡々と死が刻まれていく。
ただの一合、斬り結ぶことすら許されず、
斬られた者たちは倒れる前に、己が死を悟る暇もない。
吹き荒ぶ風だけが、何が起きたのかを知っていた。
そして、私の瞳には──ただ、ひとりの影しか映っていなかった。
「……きれい」
かろうじて、この声だけが喉から漏れた。
恐ろしいはずなのに、目が離せない。
祈りの言葉すら喉に張りついて出てこない。
神の奇跡と、確かに人の手で放たれた“美”が入り混じっていた。
一閃ごとに、世界が浄められていくようだった。
鋼が骨を断つ音が、一度だけ耳に届く。
次の瞬間には、その音すら風に呑まれていた。
それは殺戮ではなく、祈りのようで──。
不思議と、胸の奥に温かなものが灯った。
震えていたはずの手が、いつの間にか静まっている。
(ああ……もう、大丈夫。)
無意識にそう思っていた。
冷たい死の中に、ひと筋の神性がある。
漆黒の死神──いや、剣の女神。
その剣こそが、闇を裂き、希望をもたらす“光”に見えた。
最後の一人が崩れ落ちたとき、
夕陽が雲を割って差し込んだ。
血の赤と光の金が、混ざり合って彼女を照らす。
再びの静寂。
残った音は、
風の音と、彼女の呼吸の音。
ヴィクトリアは軽く息を吐き、
剣についた血を一拭いして静かに鞘へ戻す。
血の匂いも呻きも、その瞳には映っていなかった。
まるで、それが“日常”であるかのように。
彼女は馬を返し、馬車に寄せる。
静かに窓を叩く指先には、戦の熱も、勝利の誇りもない。
土埃のついた頬、汗ひとつない額。
「……お怪我はございませんか。」
そしてその声音は、最初に聞いた時と同じだった。
静かで、穏やかで──恐ろしいほどに、美しかった。
⸻
戦場の気配の残ったまま、空は夕焼けに染まっていく。
沈みゆく陽が、漆黒の騎士服を淡く照らす。
その光の中に立つ彼女は、剣の女神などではなく、
ただ、ひとりの少女のように見えた。
(……あの瞳の奥には、何があるのかしら。)
馬車が再び進み出す。
沈む夕陽に背を向けて、私たちは国境を越えていく。
その夜、野営地で──初めて、彼女と言葉を交わすことになる。




