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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第一章
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第3話:沈む夕陽に背を向けて

帝国と王国を結ぶ道は、いまだ血の記憶を洗い流せていなかった。

馬車の車輪が、焦げた大地を軋ませて進む。

かつて戦場だったその街道を、“婚姻の列”が渡ろうとしていた。


王都の外で、王国騎士団の小隊が合流した。

整然と並んだ列。

けれど、どこか張りつめすぎている。

それが緊張なのか、別の何かなのか──

この時の私には、まだ分からなかった。


窓の外に、漆黒の騎士服が揺れる。

黒髪を風に流し、赤い瞳が煌めいている。

その佇まいは、抜き身の刃のように研ぎ澄まされていた。

“黒曜の剣聖”──ヴィクトリア・ロムルス。


(皇太子殿下が信頼を置く方なのね。)


少なくとも、私の命を託すほどには。

帝国には、終戦を望まぬ者たちがいると聞く。

この護衛は、牽制でもあるのだろう。


──だが、婚姻に反対する声は王国にもある。


『“聖女”を帝国に明け渡すなど、断じて認められません!』

教会の大司教が叫んだあの声が、耳に残っていた。


(彼らにとって“聖女”は信仰ではなく、権威の象徴だったものね…。)


平和のために帝国へ嫁ぐというのに、皮肉な話だ。

そんな思考をめぐらせながら、私は静かに空を仰いだ。

灰色の雲の向こうで、かすかに陽が瞬いていた。



一日目、二日目──道程は穏やかに過ぎていった。

雲間からこぼれる陽の光が街道を染め、かつて戦火に焼かれた大地に、ようやく緑が戻り始めている。


通り過ぎる街々では、人々が道の両側に集まっていた。

手に野の花を持つ者、祈りを捧げる者、ただ黙って見送る者。

そのすべての目に、願いと祈りが宿っていた。


「姫様、どうかお幸せに……」

「戦は……もう終わるのですか?」


その声に、胸の奥がきゅうと締め付けられる。

私は微笑んで頷くしかできなかった。


馬車の窓から手を伸ばすと、小さな子どもが花を差し出した。

泥に汚れた頬。小さな手。

その花を受け取り、そっと包む。

「ええ……もう、大丈夫よ。」


子どもが笑った。

その笑顔を見て、ようやく理解した。

“誰かのために笑う”──この誓いの“誰か”とは、

この笑顔を持つ人たちのことだと。


──この人たちを、護りたい。

もう二度と、戦の炎に晒さない。


馬車が街を離れると、王国騎士の一人が口を開いた。

「……姫様。帝国の旗を掲げて、この地を通るなど、数年前には考えられませんでした。」

「そうね。戦が長すぎたもの。人々もきっと……希望を見ているのかもしれないわ。」

「希望、ですか。」

「ええ。今はまだ脆く、壊れやすいもの。

……それでも、確かに見ることはできる。」


騎士は小さく頷いた。

「……姫様のように仰る方がいれば、この国も救われましょう。」

「ありがとう……でも、救うのはわたくしではありませんわ。あなたたちや、民たちです。」

「……いえ。いいえ。姫様こそが、我が国の“希望”なのです。」


騎士の声音は、祈りのように重かった。

その会話を、黒髪の騎士が静かに聞いていた。


馬上のヴィクトリアが、こちらに目を向ける。

その瞳に、わずかに赤い光が宿った気がした──。

けれど、その意味を私が知るのは、まだ少し先のことだった。


こうして、穏やかな旅路は続いた。

けれど、空の青さがどれほど澄んでいても、

その先に待つ嵐を、誰も知らなかった。



そして、三日目。

国境の丘陵が見え始めた頃、突然、馬車が止まる。


「どうかしたのかしら?」


窓を開くと、黒髪の騎士が振り向いた。


「殿下、前方に街道を塞ぐ集団がいます。窓から離れ、馬車の中央へ。」


その声音は冷静で、微塵の乱れもない。

私は指示に従いながらも、わずかに外を覗いた。

街道を塞ぐ数十の影。

甲冑と軍馬、槍の群れ──まるで戦場のようだった。


「貴様ら、何のつもりだ!道を開けよ!」

「王女殿下の御前であるぞ!」


王国騎士たちの怒声が飛ぶ。

だが返ったのは、別の怒号だった。


「帝国に魂を売った裏切り者どもめ!」

「“聖女”を我らの手に還せ!」


──教会騎士団。

やはり、来たのね。


婚姻の報せは、王家から王国中央教会のもとに届いていた。

だが、地方の教会勢力の中では、なおも反発が燻っていた。

“聖女”は神の御業の象徴。

その身が帝国に渡ることを、

彼らは“信仰の敗北”と叫んだ。


集まったのは、わずか数十。

けれど、その目は常人のものではなかった。

祈りと呪詛の区別も曖昧な、狂信者の群れ。

幾人かは、手を組み神に祈りを捧げている。

その瞳には、救いではなく炎が宿っていた。


彼らにとって、この襲撃は聖戦だった。


……理屈など通じるはずもない。


「全周警戒!馬車を護れ!」


ヴィクトリアの声が、空を奔る雷鳴のように響いた。

帝国騎士たちが半円を描き、盾を構える。

土を蹴る音、馬の嘶き、鉄の匂い。

次の瞬間、空気が裂けた。


剣戟。

甲冑の擦れる音。

神の名を叫ぶ声。

戦塵が舞い上がり、視界が霞む。

私は震える侍女の手を握りながら、

ただ、嵐が過ぎるのを待った。


やがて音が止む。


静寂。


静かに窓が叩かれ、黒い影が現れた。

土埃のついた頬、汗ひとつない額。


「……お怪我はございませんか。」

「ええ、何事もないわ。ありがとう。」

「街道を開けます。今しばらくお待ちください。」


そう告げて、彼女は馬を返した。


前方には、王国騎士団の隊長格。

ヴィクトリアは、躊躇いもなくその喉元へ剣を突きつける。


「……剣聖殿。これは何の真似だ。」

「馬車へ向かう敵が多すぎた。意図的に流したな。」

「証拠もなく、何を──」


赤い瞳が細められる。


「貴様らからは隠しきれぬ殺気を感じる。王都を出てから、ずっとだ。」

「……」

「油断させ、我らの後背を突くつもりだったのだろう。」


男の顔色が変わる。

沈黙のあと、乾いた笑いが響いた。


「ははは……なるほど、これが“剣聖”か。小娘と思い侮った。」

「……」

「姫様は王国の希望!自らの権威のことしか考えておらぬ教会にも!政略結婚などという茶番を突きつけてきた帝国にも!断じて渡してなるものか!」


「その政略結婚こそが、両国の希望だ。」


「“貴様らの”希望だろうが!!」


怒号が飛ぶ。殺気が満ちる。

剣が抜かれる音。

金属が擦れ、空気が張り詰めた。


ヴィクトリアが静かに命じる。

「──馬車を護れ。私ひとりでいい。」


「殺せ!!!」


二人の騎士が突撃した。

剣が振り下ろされる。

だが──空を切った。


刹那、光。

二人の胴が裂け、馬上から落ちる。

血飛沫すら風に溶け、音もなく消えた。


残る者たちが息を呑む間もなく、

黒髪の騎士が動いた。


剣が舞う。

音が遅れて届く。


一瞬の静寂。

そして、再び命が散った。


一人。

また一人。


斬撃は流麗で、残酷なまでに正確だった。

ひと振りごとに鈍色の光が閃き、命が消える。


それは戦ではなく、舞踏だった。

死が、踊っていた。


流れるように、踊るように、

淡々と死が刻まれていく。


ただの一合、斬り結ぶことすら許されず、

斬られた者たちは倒れる前に、己が死を悟る暇もない。

吹き荒ぶ風だけが、何が起きたのかを知っていた。


そして、私の瞳には──ただ、ひとりの影しか映っていなかった。


「……きれい」


かろうじて、この声だけが喉から漏れた。

恐ろしいはずなのに、目が離せない。

祈りの言葉すら喉に張りついて出てこない。


神の奇跡と、確かに人の手で放たれた“美”が入り混じっていた。


一閃ごとに、世界が浄められていくようだった。

鋼が骨を断つ音が、一度だけ耳に届く。

次の瞬間には、その音すら風に呑まれていた。


それは殺戮ではなく、祈りのようで──。


不思議と、胸の奥に温かなものが灯った。

震えていたはずの手が、いつの間にか静まっている。


(ああ……もう、大丈夫。)


無意識にそう思っていた。


冷たい死の中に、ひと筋の神性がある。

漆黒の死神──いや、剣の女神。

その剣こそが、闇を裂き、希望をもたらす“光”に見えた。


最後の一人が崩れ落ちたとき、

夕陽が雲を割って差し込んだ。

血の赤と光の金が、混ざり合って彼女を照らす。


再びの静寂。

残った音は、

風の音と、彼女の呼吸の音。


ヴィクトリアは軽く息を吐き、

剣についた血を一拭いして静かに鞘へ戻す。

血の匂いも呻きも、その瞳には映っていなかった。

まるで、それが“日常”であるかのように。


彼女は馬を返し、馬車に寄せる。

静かに窓を叩く指先には、戦の熱も、勝利の誇りもない。


土埃のついた頬、汗ひとつない額。


「……お怪我はございませんか。」


そしてその声音は、最初に聞いた時と同じだった。

静かで、穏やかで──恐ろしいほどに、美しかった。



戦場の気配の残ったまま、空は夕焼けに染まっていく。

沈みゆく陽が、漆黒の騎士服を淡く照らす。

その光の中に立つ彼女は、剣の女神などではなく、

ただ、ひとりの少女のように見えた。


(……あの瞳の奥には、何があるのかしら。)


馬車が再び進み出す。

沈む夕陽に背を向けて、私たちは国境を越えていく。

その夜、野営地で──初めて、彼女と言葉を交わすことになる。

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