第29話:蒼天を舞う白き大鷲 ②
「……って、呆けてる場合じゃないんですよ!
リュークスさん、急いで。彼女を運びますよ。」
「お、おう!剣聖どの、失礼いたします!」
レベッカの言葉を受け、リュークスが剣聖を抱き上げる。
鎧越しにも伝わる体温は、驚くほどに冷たかった。
腹部から溢れた夥しい量の血が甲冑を伝い、指先に鉄の匂いが染みつく。
まだ息はある。
だが、その呼吸は浅く、唇にはもう色がない。
「ああ、これは重傷ですね……。すぐ応急処置します。」
「出来るのか!?」
「お任せを。──癒やせ、“春風”。」
緑の光が奔り、柔らかな風が流れる。
花の香りが焦げた空気を上書きし、血の匂いの中に淡い春が戻った。
リュークスはふと、幼い日に母の腕に包まれた温もりを思い出す。
ヴィクトリアの苦悶に歪んでいた表情が、少しずつ和らいでいった。
リュークスはその変化を確かめるように見つめ、深く息を吐く。
「……おい、目を覚まさないぞ。」
「それはそうでしょう。傷は塞ぎましたが、血は戻らない。
それ以外にも理由はありますが……。
ひとまず安静にできる場所に運びましょう。」
「任せろ!」
彼の声と共に、兵たちが動き出す。
荒れ果てた戦場に、ようやく“生”の気配が戻っていた。
⸻
常備軍の幕舎。
湿った布と薬草の匂いが、静かな空気に溶けていた。
ヴィクトリアは寝台に横たわり、浅い呼吸を続けている。
油灯の灯火が弱く揺れ、幕舎の布壁に赤い影を落とした。
──その隣、軍議室。
将たちが集まり、低い声で話し合っている。
「第一王子殿下、この度のご助力に感謝いたします。
皆様のおかげで、帝国は大いなる危機を乗り越えることができました。」
言葉を終えると、全員が膝をついた。
その光景を前に、エリアスは穏やかに微笑む。
金糸の髪が灯火に照らされ、柔らかく揺れた。
「どういたしまして。
……ですが、勝手に帝国へ越境してしまって申し訳ない。」
「とんでもございません!
しかし、どうしてここが戦地だと?」
問いに、エリアスは一瞬だけ考え、やがて軽く笑って答えた。
「我々もノーレを仮想敵として、動きを探っていました。
すると、ノーレから密かに軍の物資が北へ運ばれていると分かったんです。
北方からの侵攻の可能性を見て、王国北部に兵を配備していたところ……。
ファルセ砦のあたりから黒煙と狼煙を確認しましてね。
帝国が襲われたと判断して、駆けつけた次第です。」
語り口は穏やかだったが、言葉の端々には確かな観察と決断の重みがあった。
将たちは感嘆の声を漏らす。
「な、なるほど……ご慧眼、感服いたしました。」
エリアスは軽く咳払いをし、話題を切り替えるように姿勢を正した。
「それで──剣聖どのの件ですが。」
「はっ。剣聖どのもお救いいただき、誠に……。」
「いえ、そうでなくて。」
エリアスの声が少し低くなる。
「恐らく、落ち着いた頃に帝都へ護送することになるでしょう。」
「は、はあ……そうですな。」
「我々も、同行してよろしいですか?」
「えっ!?」
驚きの声が幕舎に響く。
油灯の灯が揺れ、顔を照らす影が揺らめく。
誰もが、息を呑んだ。
曇天の向こう、帝都はまだ遠い。
だが、運命の役者たちは──確かに、揃いつつあった。




