第29話:蒼天を舞う白き大鷲 ①
静寂。
両軍が手を止め、息を潜める。
その静けさの中で、やがてひとりの影が立ち上がった。
「……ふっ、ふふふ……大したものだったが……。
俺は、腹を貫かれた程度では死なん。」
魔王が低く笑う。
腹と口から血が滴り落ちる。
だが、その足取りは重くも続き、崩れ伏した剣聖の前に止まった。
「見事だ、“剣聖”。実に見事。
その剣に敬意を表し──苦しませずに殺してやる。」
黒銀の槍が静かに構えられた。
曇天の光を受け、刃が薄く輝く。
帝国の兵が剣聖を守らんと動いたが、魔族の列がそれを遮った。
鋭い爪が壁のように伸び、鉄と血の匂いが空気を満たす。
次の瞬間──
戦場を裂くような鬨の声が、“西方”から響いた。
人の軍勢。
高く翻る軍旗に、青と白の大鷲が描かれている。
「エルスーア軍だ!」
誰かが叫ぶ。
王国軍の指揮官が戦場を睨む。
金糸の髪が風に揺れ、紫水晶の瞳が淡い光を映す。
王国第一王子、エリアス・ノエル・エルスーア。
「“剣聖”を護れ!」
その声は若く、しかし決然としていた。
号令と共に王国の騎兵が突撃し、魔軍の横腹を突く。
不意を突かれた魔族の陣が波打つように崩れ、馬蹄が大地を砕く。
甲冑が軋み、鉄と怒号の音が一斉に重なった。
そして、戦場の隙を縫って、一騎の騎士が魔王へと突進する。
黒銀の槍が殺気を帯びて閃く。
だが、その槍を、白銀の槍が受け止めた。
衝突の音が、戦場全体を震わせる。
白銀の甲冑。黄金の髪、藍の瞳。
かつて剣聖と剣を交えた若き騎士が、
今度は剣聖を守るために立ちはだかった。
「剣聖どのを、やらせるものか!」
リュークス・パドレ。
王国の若獅子が、魔王を睨みつける。
その眼差しに、恐れも迷いもなかった。
魔族の群れがその騎士に殺到する。
だが、爪が届くより早く、一筋の閃光が走った。
「疾れ、“雷霆”。」
白き稲妻が奔り、群れを貫いた。
雷の残滓が空気を焼き、轟音が山々にこだまする。
術を放った魔術師は、真紅の髪を風に靡かせ、金赤の瞳で魔王を見据えていた。
「人を侮り過ぎましたね、魔王。
残念ですが……時間切れです。」
リュイペの魔術師、レベッカ・セイロンの声が戦場に溶けた。
その声音は軽く、まるで朝の天気を告げるようだった。
⸻
「時間切れだと?貴様、何を──」
「聞いた通りですよ。貴方の軍勢は崩壊寸前。
貴方自身も死に体。剣聖は殺せず、帝国も落とせない。そして──」
レベッカは淡々と戦場を見渡し、口元だけで笑う。
「舞い散れ、“紅蓮”。」
炎の柱が噴き上がった。
紅蓮の花が咲くように爆ぜ、魔族の密集点を呑み込む。
鉛色の雲が炎に舐められ、光が戦場を赤く染めた。
魔族の悲鳴が短く散り、灰が風に溶けていく。
「お分かりでしょう?今の貴方では、ぼくには勝てません。
貴方の軍勢もね。」
レベッカの声は変わらず軽かったが、その声音には鋭い確信があった。
魔王は痺れたように息を吐いた。
血が滴り、顔には屈辱と怒りが入り混じる。
「……解せぬな。」
「何がです?」
「なぜ、この場で俺を殺さぬ。
貴様ならば、容易く今の俺を殺せよう。」
「……残念ですが、“ぼくでは貴方を殺せない”。
それ以上は教えませんよ。教える意味もありません。」
短い会話の間、風が戦場を撫でる。
焦げた鉄の匂いと血の匂いが混ざり合い、冷気が吹き抜けた。
「……巫山戯おって。その顔、この屈辱、忘れんぞ。」
「はいはい。」
魔王は血を垂らしながら、北へと退いた。
魔族たちは自然と列を整え、後に続く。
戦意は静かに霧散し、戦場に残ったのは焦土の匂いだけだった。
煙と血の香りが重なり、風がそれを攫っていく。
兵たちは突如終わった戦いを、ただ呆然と見送っていた。




