第27話:血と鉄の風を受けて
春が過ぎ、初夏の風が吹き始めた頃──。
その日、帝国全土が揺れた。
ついに、ノーレ王国への討伐が発令されたのだ。
総勢二十万。
北方防衛を担う第三騎士団と、帝都防衛の第一騎士団、そして後詰の帝国常備軍三万を除く、
帝国軍のほぼ全戦力が動員された。
街路には軍旗が翻り、金属の響きと号令が絶え間なく響き渡る。
熱気に満ちた空気の中、誰もが理解していた。
──この戦こそ、帝国を長く蝕んだ宿痾を断ち切る最終の機会であると。
城下では、兵を送り出す民の声があちこちで響いていた。
「あなた……どうか無事で帰ってきてね。」
「父ちゃん! ノーレなんかやっつけちゃえ!」
「常連が来なくなっちまうのは寂しいねぇ。
帰ってきたら、エールを樽で奢るからな!」
「言ったな? 忘れんなよ!」
泣き笑いの声が重なり、街全体がひとつの歌のように戦の風を受けていた。
──そして、帝城。
玉座の間は戦支度の空気に包まれていた。
鎧の金属音が響き、兵の列が整然と並ぶ中で、
漆黒の鎧に真紅の外套を纏ったクロイツァーが重く口を開いた。
「では、エレツィア。後事は任せた。俺は征く。」
その声は静かだったが、決意の芯があった。
エレツィアはわずかに頷き、唇を引き結ぶ。
「……はい、クロイツァーさま。どうか無事でお帰りくださいませ。」
エレツィアが視線を移すと、そこに立つのは黒曜の甲冑の女騎士。
夜をまとったような装いに、胸元の“剣聖の紋章”が鈍く光を返している。
「ノーレは正面から戦えば敵ではありません。
必ず、殿下をお護りします。」
その言葉に、エレツィアの目がわずかに和らぐ。
「ヴィクトリア……。貴女も、どうか無事で。」
「はい。」
短いが、確かな信頼の言葉が交わされた。
回廊の片隅で、ラウラが声を張り上げる。
「ヴィクトリアさん──!」
足を止め、振り返る。
「ラウラさん。行ってまいります。」
「……わたし、嫌な予感がするのです。
どうか、どうかご無事で……!」
ラウラの手が胸元で強く握りしめられる。
ヴィクトリアは一瞬だけ、その仕草を見つめてから微笑んだ。
「ええ。お任せください。」
鎧の金具が小さく鳴り、
ヴィクトリアは静かに背を向けた。
その背が角を曲がって見えなくなっても、
ラウラはただ、息を詰めて見送っていた。
⸻
そうして進軍すること五日。
地方の領主勢も合流し、ついに総勢二十万の軍が整った。
金属と革の匂いが混ざり合い、行軍路は大地を踏み鳴らす響きで満たされる。
ひしめく槍が陽光に照らされ、鈍色の光を放つ。
その威容は重く、強く、
もはやエルスーアを除けば、この大陸で帝国軍に抗える勢力は存在しないと思えるほどだった。
──帝国とノーレの国境沿い、最初の防衛拠点・ガウ砦。
険しい岩山の麓に築かれた石の砦を前に、
幕舎で軍議が開かれた。
地図の上に置かれた駒が、静かに光を反射している。
参謀が一歩進み出て、淡々と報告した。
「ノーレ軍は砦に籠もり、徹底抗戦の構えを見せております。
……ただし、兵数はごく少数。斥候によると、周囲に伏兵も確認されません。」
ざわめき。
将たちが顔を見合わせる。
「“どうぞお通りください”とでも言わんばかりだな。」
クロイツァーの声が低く響く。
「……匂うが、素通りするわけにもいかぬ。予定通り、速やかに落とすぞ。
先鋒はジタン伯爵、バルロー子爵に任せる。」
「はっ。」
その一言を合図に、幕舎を出た伝令が駆ける。
そして、
空気が裂けた。
怒号、大地を蹴る音、金属がぶつかる音。
矢が唸り、炎が砦を焼く。
戦が始まった。
あらゆる音が空気に混じり合い、
大地そのものが震えているようだった。
──そして、戦闘は一日のうちに終わった。
砦の旗が落ち、
夕暮れとともに、帝国の軍旗が新たに掲げられる。
風に翻るその旗の影が、血の色を帯びて見えた。
⸻
夜。占領した砦の一室にて、再び軍議が開かれた。
地図には、ノーレ領内へ続く街道と補給路が赤線で描かれている。
「これまでは順調だが、ここからはノーレ国内だ。」
クロイツァーが静かに言葉を落とす。
「日陰を好む奴らのことだ、恐らく何かの策謀を練っているだろう。」
諸侯の間に緊張が走る。
「奴らには毒がある。“ノーレの毒”と呼ばれる劇毒だ。
兵にも周知させ、水源には特に気をつけよ。」
「現地の水に頼れぬと……。
そうなれば、補給線が命綱となりますな。」
「うむ。警護を厳とせよ。
兵力はこちらが圧倒している。補給に兵を余分に割いてもかまわぬ。」
「現地民の慰撫にも配慮せよ。略奪は厳罰に処す。
我らへの敵意が高まれば、背を刺されるぞ。」
「はっ。」
灯火が地図の上で揺れ、影が伸びる。
外では風が鳴り、
遠くで戦後の野営の喧騒が微かに響いていた。
帝国軍の行進は、まだ序章に過ぎない。
誰もがそう分かっていながら、
誰もその“嵐の中心”を見抜けてはいなかった。
⸻
さらに半月後。
帝国軍は着実に進軍を続けていたが、敵の姿は見えなかった。
ノーレ軍は五万を超える兵を擁しながら、まともに戦おうとはしない。
小競り合いを繰り返しては後退を続け、まるで大地そのものが帝国を呑み込もうとしているかのように、
じわじわとその大軍を領土の奥へと誘い込んでいた。
「……やはり、誘っているな。」
クロイツァーは低く呟いた。
「兵力を温存し、補給線を狙っているか。
今見えている五万という兵も少なすぎる。」
彼の声は冷静だったが、空気には確かな緊張が走っていた。
幕舎の天幕の外では、鉄の匂いを帯びた風が吹き抜け、
どこか遠くで狼が吠えるような音がした。
参謀が報告する。
「隘路には伏兵の兆候なし。制圧済みの砦はガウ、ラバン、マルシュの三つ。
ですが、これ以上の速度で進めば補給が厳しくなります。」
クロイツァーが顎に手を当て、青の瞳が地図の上に視線を落とす。
灯火が彼の輪郭を赤く染めた。
「……進軍速度を落とせ。焦るなと伝えよ。」
そのとき、外から足音が駆け込む。
幕をはね上げ、伝令が叫んだ。
「報告!ガウ砦、マルシュ砦の井戸に毒が投げ込まれております!」
空気が、音を失った。
将たちが息を呑み、視線を交わす。
外の風さえ、ぴたりと止まったように感じられた。
「やはり来たか。」
クロイツァーは即座に立ち上がる。
「全軍に通達、水の使用を禁止せよ!
補給の水を使え!」
「奴ら……自国を毒で汚す気か!」
「狂っている!」
「正義はないのか……!」
怒号が飛び交い、幕舎の中は混乱の渦に飲み込まれた。
その最中、また別の伝令が駆け込む。
その顔は蒼白で、喉が震えていた。
「緊急事態!背骨山脈より魔族の軍勢が侵入!
第三騎士団、か、壊滅──!」
その瞬間、軍議場が静まり返った。
炎の音だけが、遠くでぱちぱちと鳴る。
誰もが言葉を失い、ただ一点を見つめている。
ヴィクトリアの腰に下げられた“滅魔の剣”が、
音もなく、わずかに震えた。
柄から伝わる震動は、手のひらを通して心臓に響く。
冷たく、けれど確かに“剣聖”に何かを語りかけた。
彼女は息を吸った。赤い瞳が光を宿す。
鉄と血の匂いが、風に混じっていた。
──それは、世界が変わる前触れだった。




