表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第三章
44/82

第27話:血と鉄の風を受けて

春が過ぎ、初夏の風が吹き始めた頃──。

その日、帝国全土が揺れた。


ついに、ノーレ王国への討伐が発令されたのだ。


総勢二十万。

北方防衛を担う第三騎士団と、帝都防衛の第一騎士団、そして後詰の帝国常備軍三万を除く、

帝国軍のほぼ全戦力が動員された。


街路には軍旗が翻り、金属の響きと号令が絶え間なく響き渡る。

熱気に満ちた空気の中、誰もが理解していた。

──この戦こそ、帝国を長く蝕んだ宿痾を断ち切る最終の機会であると。


城下では、兵を送り出す民の声があちこちで響いていた。


「あなた……どうか無事で帰ってきてね。」

「父ちゃん! ノーレなんかやっつけちゃえ!」


「常連が来なくなっちまうのは寂しいねぇ。

帰ってきたら、エールを樽で奢るからな!」

「言ったな? 忘れんなよ!」


泣き笑いの声が重なり、街全体がひとつの歌のように戦の風を受けていた。


──そして、帝城。


玉座の間は戦支度の空気に包まれていた。

鎧の金属音が響き、兵の列が整然と並ぶ中で、

漆黒の鎧に真紅の外套を纏ったクロイツァーが重く口を開いた。


「では、エレツィア。後事は任せた。俺は征く。」


その声は静かだったが、決意の芯があった。


エレツィアはわずかに頷き、唇を引き結ぶ。

「……はい、クロイツァーさま。どうか無事でお帰りくださいませ。」


エレツィアが視線を移すと、そこに立つのは黒曜の甲冑の女騎士。

夜をまとったような装いに、胸元の“剣聖の紋章”が鈍く光を返している。


「ノーレは正面から戦えば敵ではありません。

必ず、殿下をお護りします。」


その言葉に、エレツィアの目がわずかに和らぐ。

「ヴィクトリア……。貴女も、どうか無事で。」

「はい。」


短いが、確かな信頼の言葉が交わされた。


回廊の片隅で、ラウラが声を張り上げる。

「ヴィクトリアさん──!」


足を止め、振り返る。


「ラウラさん。行ってまいります。」

「……わたし、嫌な予感がするのです。

どうか、どうかご無事で……!」


ラウラの手が胸元で強く握りしめられる。

ヴィクトリアは一瞬だけ、その仕草を見つめてから微笑んだ。


「ええ。お任せください。」


鎧の金具が小さく鳴り、

ヴィクトリアは静かに背を向けた。


その背が角を曲がって見えなくなっても、

ラウラはただ、息を詰めて見送っていた。



そうして進軍すること五日。

地方の領主勢も合流し、ついに総勢二十万の軍が整った。


金属と革の匂いが混ざり合い、行軍路は大地を踏み鳴らす響きで満たされる。

ひしめく槍が陽光に照らされ、鈍色の光を放つ。

その威容は重く、強く、

もはやエルスーアを除けば、この大陸で帝国軍に抗える勢力は存在しないと思えるほどだった。


──帝国とノーレの国境沿い、最初の防衛拠点・ガウ砦。


険しい岩山の麓に築かれた石の砦を前に、

幕舎で軍議が開かれた。

地図の上に置かれた駒が、静かに光を反射している。


参謀が一歩進み出て、淡々と報告した。


「ノーレ軍は砦に籠もり、徹底抗戦の構えを見せております。

……ただし、兵数はごく少数。斥候によると、周囲に伏兵も確認されません。」


ざわめき。

将たちが顔を見合わせる。


「“どうぞお通りください”とでも言わんばかりだな。」

クロイツァーの声が低く響く。

「……匂うが、素通りするわけにもいかぬ。予定通り、速やかに落とすぞ。

先鋒はジタン伯爵、バルロー子爵に任せる。」


「はっ。」


その一言を合図に、幕舎を出た伝令が駆ける。

そして、


空気が裂けた。


怒号、大地を蹴る音、金属がぶつかる音。

矢が唸り、炎が砦を焼く。

戦が始まった。


あらゆる音が空気に混じり合い、

大地そのものが震えているようだった。


──そして、戦闘は一日のうちに終わった。


砦の旗が落ち、

夕暮れとともに、帝国の軍旗が新たに掲げられる。

風に翻るその旗の影が、血の色を帯びて見えた。



夜。占領した砦の一室にて、再び軍議が開かれた。

地図には、ノーレ領内へ続く街道と補給路が赤線で描かれている。


「これまでは順調だが、ここからはノーレ国内だ。」

クロイツァーが静かに言葉を落とす。

「日陰を好む奴らのことだ、恐らく何かの策謀を練っているだろう。」


諸侯の間に緊張が走る。


「奴らには毒がある。“ノーレの毒”と呼ばれる劇毒だ。

兵にも周知させ、水源には特に気をつけよ。」


「現地の水に頼れぬと……。

そうなれば、補給線が命綱となりますな。」


「うむ。警護を厳とせよ。

兵力はこちらが圧倒している。補給に兵を余分に割いてもかまわぬ。」


「現地民の慰撫にも配慮せよ。略奪は厳罰に処す。

我らへの敵意が高まれば、背を刺されるぞ。」


「はっ。」


灯火が地図の上で揺れ、影が伸びる。

外では風が鳴り、

遠くで戦後の野営の喧騒が微かに響いていた。


帝国軍の行進は、まだ序章に過ぎない。

誰もがそう分かっていながら、

誰もその“嵐の中心”を見抜けてはいなかった。



さらに半月後。

帝国軍は着実に進軍を続けていたが、敵の姿は見えなかった。


ノーレ軍は五万を超える兵を擁しながら、まともに戦おうとはしない。

小競り合いを繰り返しては後退を続け、まるで大地そのものが帝国を呑み込もうとしているかのように、

じわじわとその大軍を領土の奥へと誘い込んでいた。


「……やはり、誘っているな。」

クロイツァーは低く呟いた。

「兵力を温存し、補給線を狙っているか。

今見えている五万という兵も少なすぎる。」


彼の声は冷静だったが、空気には確かな緊張が走っていた。

幕舎の天幕の外では、鉄の匂いを帯びた風が吹き抜け、

どこか遠くで狼が吠えるような音がした。


参謀が報告する。

「隘路には伏兵の兆候なし。制圧済みの砦はガウ、ラバン、マルシュの三つ。

ですが、これ以上の速度で進めば補給が厳しくなります。」


クロイツァーが顎に手を当て、青の瞳が地図の上に視線を落とす。

灯火が彼の輪郭を赤く染めた。

「……進軍速度を落とせ。焦るなと伝えよ。」


そのとき、外から足音が駆け込む。

幕をはね上げ、伝令が叫んだ。


「報告!ガウ砦、マルシュ砦の井戸に毒が投げ込まれております!」


空気が、音を失った。


将たちが息を呑み、視線を交わす。

外の風さえ、ぴたりと止まったように感じられた。


「やはり来たか。」

クロイツァーは即座に立ち上がる。

「全軍に通達、水の使用を禁止せよ!

補給の水を使え!」


「奴ら……自国を毒で汚す気か!」

「狂っている!」

「正義はないのか……!」


怒号が飛び交い、幕舎の中は混乱の渦に飲み込まれた。

その最中、また別の伝令が駆け込む。

その顔は蒼白で、喉が震えていた。


「緊急事態!背骨山脈より魔族の軍勢が侵入!

第三騎士団、か、壊滅──!」


その瞬間、軍議場が静まり返った。


炎の音だけが、遠くでぱちぱちと鳴る。

誰もが言葉を失い、ただ一点を見つめている。


ヴィクトリアの腰に下げられた“滅魔の剣”が、

音もなく、わずかに震えた。


柄から伝わる震動は、手のひらを通して心臓に響く。

冷たく、けれど確かに“剣聖”に何かを語りかけた。


彼女は息を吸った。赤い瞳が光を宿す。

鉄と血の匂いが、風に混じっていた。


──それは、世界が変わる前触れだった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ