第25.X話:ヴィクトリア、平穏な日々 ③
ある日の夜。
帝都の社交界を彩る夜宴の広間には、光と音が満ちていた。
楽団の弦が流れ、香が漂い、笑い声が重なる。
その喧騒のただ中で──ふと、空気が変わった。
誰かが息を呑む。
周囲の視線が、一点へと吸い寄せられていく。
そこに現れたのは、見知らぬひとりの令嬢だった。
胸元と背を大きく開いた夜宴の礼装。
肩までも露わにしたその仕立ては、この帝都では滅多に見られぬ斬新な意匠であり、
あまりの大胆さに、言葉を失う者さえいた。
だが、それは決して俗ではなかった。
青みの混ざる黒衣は深い夜を映し、金糸の刺繍が星屑のように光を散らす。
一歩ごとに裾が揺れ、細やかな輝きが床に流れ落ちていくさまは、
星の川が歩みを持ったかのようだった。
本来は令嬢らしからぬ、短く切り整えられた黒曜の髪が、燭台の灯りを受けて淡く艶めく。
光を滑らせるように動くその髪は、
彼女の輪郭を際立たせ、凛とした美を引き立てていた。
白磁の肌には、月光のごとく煌めく耳飾りと首飾り。
その銀の鎖が呼吸のたびに微かに鳴り、
静寂の中で、鈴のような音が夜気に溶けた。
赤い瞳がふと上を向く。
猛々しい炎ではなく、夜の灯火のような静けさを宿した光。
その一瞥が広間を横切った瞬間、ざわめきが波のように遠のいていった。
静かにグラスを傾ける。
その所作ひとつで、月の光が霞む。
音楽が途切れたわけではない。
けれど、誰もが耳を澄まし、息を潜めた。
歩み出すたび、金糸の光が星々の軌跡を描く。
黒衣の裾が揺れるたびに、夜がその形を変えていく。
誰もが見惚れていた。
彼女がそこに立つだけで、夜宴の中心は書き換えられた。
まるで──夜そのものが、人の姿を取って現れたかのようだった。
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「……なんと美しい。あれは夜の女神だ。」
「どこの令嬢だ?あれほどの器量の娘が、あの歳まで秘されていたとは。」
「あのドレス……大胆な意匠なのに、本人が微塵も負けていない……奇跡だ。」
謎の令嬢の美貌に息を呑む音が響き、次いでざわめきが広がった。
若い男たちは吸い寄せられるように近づき、口々に言葉を投げかけた。
「ビュロー伯爵家、ブライス・ビュローと申します。麗しき女神にご挨拶を。」
「帝都にこれほど美しい花が咲いていたとは。……そのお名前を、お聞かせいただけませんか。」
令嬢はわずかに微笑む。
形の良い唇が動き、凛とした声がその場に響く。
「──第一騎士団所属、ヴィクトリア・ロムルスと申します。」
一瞬の沈黙。
次いで、男たちの表情が固まる。
「……ご冗談を。それは剣聖殿の名です。」
「ええ。私が、その“黒曜の剣聖”です。」
静寂。
その美貌に見惚れていた者たちが、引きつった笑みを浮かべながら、次々と後ずさりして消えていく。
退散の音が、まるで風のように場を撫でた。
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遠くからその様子を眺めていたクロイツァーが、苦笑する。
「ふっ……あやつらは全員落第だな。剣聖の名を聞いただけで退くとは。
温室育ちの貴族どもに、戦塵に塗れた英雄の名は衝撃だったか。」
隣で見守っていたエレツィアが唇を尖らせた。
「もう。せっかく綺麗にしたのに。
壁の花なんて、許さないわよ。」
「仕方あるまい──」
クロイツァーは軽く宴服の襟を整え、彼女に一礼する。
「今宵は俺が行こう。エレツィア、すまぬが少し待っていてくれ。」
堂々と歩み出る皇太子。
その姿に、会場の空気が再び変わった。
「……殿下。」
ヴィクトリアが姿勢を正す。
クロイツァーは完璧な礼をもってその手を差し出した。
「クロイツァー・オルヴァンスと申します。
美しき黒曜の君──一曲、踊っていただけますか。」
ヴィクトリアは一瞬その瞳を揺らし、そして柔らかく微笑んだ。
「──喜んで。」
音楽が流れ出す。
二人が舞踏の中央に立つと、世界が静まり返った。
漆黒と黒曜が絡み合い、光と影がひとつになる。
彼の手が導き、彼女の短い髪が揺れ、
黒衣が星屑を散らす。
息のあったステップが、音楽に合わせて緩やかに刻まれた。
それは戦場では見せぬ、剣と剣の舞。
刃が交わる代わりに、心が交わる静かな調和の舞だった。
見守る者たちが息を呑む。
声にならない感嘆の響きが、夜を包んだ。
エレツィアは苦笑混じりの微笑みを浮かべ、ため息をついた。
「……あの人くらいじゃないと、ヴィクトリアとは釣り合わないのではないかしら。」
穏やかな夜。
音楽と笑い声の中で、時は静かに流れていく。
こうして──帝国に、ほんの少しの“平穏な日々”が訪れていた。




