第25.X話:ヴィクトリア、平穏な日々 ②
穏やかな昼下がり。
皇太子の私室には、柔らかな陽光が差し込んでいた。
テラスの窓を開け放つと、遠くから鳥の声と花の香りが運ばれてくる。
クロイツァーとエレツィアは紅茶を飲みながら、久しぶりに穏やかな時間を過ごしていた。
その背後には、変わらず控える黒髪の騎士。
護衛でありながら、いつしかこの静かな空気の一部になっていた。
エレツィアが、そっとティーカップを置く。
「……残念だわ。」
クロイツァーが眉を上げた。
「どうした、エレツィア。」
「ヴィクトリアが結婚していないのが、残念なの。
もし私が子を授かった時、ヴィクトリアも同じように授かっていてくれたら……
その子たちは、乳兄弟にできるでしょう?」
「なるほどな。」
クロイツァーは軽く笑い、紅茶を揺らす。
「乳兄弟の絆は、時に血の繋がりより深い。
幼い頃は、随分と羨ましく思ったものだ。」
沈黙していたヴィクトリアが、静かに口を開く。
「エレツィア様は……私が結婚していると、嬉しいのですか?」
「えっ?ええ、そうね。そうだったらいいなと思っただけ──」
その言葉を聞くや否や。
「すぐに結婚して参ります。」
ダァンッ!
黒髪の騎士が、雷鳴のような勢いで部屋を飛び出した。
「黒曜!?」「ヴィクトリア!?」
廊下に控えていた衛兵たちは、突然の出来事に身を竦め、唖然とする。
その中の一人に、ヴィクトリアが一歩詰め寄った。
鍛え上げられた体格の衛兵よりも、彼女の方がわずかに背が高い。
そして──壁際に手を突いた。
石壁がかすかに鳴り、凛々しく整った顔が間近に迫る。
その距離に、衛兵の頬が紅潮する。
「おい。私と結婚してくれ。」
「えっ……!?よ、喜んでぇ!!」
「待て!!!」「ダメよ!!!」
皇太子とその妻の絶叫が、廊下まで響き渡った。
⸻
それから少しして。
ヴィクトリアは椅子に座らされ、正面に立つふたりから見事なまでに説教を受けていた。
まるで悪戯を叱られる子どものように背筋を伸ばし、両膝を揃えている。
「──あのね、ヴィクトリア。女の子が結婚するっていうのはね、とても大事なことなの。
軽はずみに決めてはだめなのよ。」
「……はい。」
「その通りだ。」
クロイツァーも腕を組む。
「婚姻は時に一国を背負うほどに重い。だからこそ、相手はよく考えてだな……」
「クロイツァーさま、それはちょっとずれているわ。」
「……む、そうか。
だがな黒曜、衛兵に片っ端から声をかけずとも──」
彼が合図を送ると、文官が一抱えもある書簡の束を抱えて入ってきた。
机の上に置かれると、どさりと重い音が響く。
「──貴様には、これだけの結婚の申込みが来ておる。
この一年だけでも、名家の嫡男、将軍の子息、大臣の跡取り……よりどりみどりだ。」
「あら……。」
「……初耳です。」
「それはそうだ。どうせ断るだろうと、俺がすべて遮断していた。」
「まあ……なぜあなたがそのようなことを?」
「エレツィアは知らなんだか。」
クロイツァーは肩を竦める。
「剣聖を拝命した時、政治的な後ろ盾がないこれは政争の具になると思った。
だから俺が“後見”になったのだ。
……結果として、黒曜宛の恋文が俺の執務机に山積みになったがな。」
「……ご心労をおかけしてしまい、申し訳ありません。」
「構わん。俺が勝手に背負っているだけだ。
だが、反対派やら旧貴族派やらの有象無象を間引いても、これだけの数が残る。
……貴様がその気になれば、明日にでも花嫁衣装が着られるぞ。」
エレツィアがくすりと笑う。
「せっかくヴィクトリアは相手を選べる立場にあるのだもの。
貴女を一番幸せにしてくれる方を選ぶべきだわ。」
「──ロマンチストだな。」
クロイツァーの声が低く響く。
「選べるならば、最も価値のある者にすべきだ。
黒曜は帝国でも至上の騎士だ。安売りするな。」
ふたりの目と目が合った瞬間、空気がぴりりと張り詰めた。
獅子と雌虎──帝国最強の夫婦の視線が交錯し、静かな火花を散らす。
ヴィクトリアはそっとため息を漏らす。
「おふたりの意見を合わせると……『私を幸せにしてくれる、最も価値のある方』ということでしょうか。」
その言葉に、ふたりが笑みを浮かべる。
「ふふ。……確かに、そうね。別にどちらかを選ぶ必要はないわ。」
「ふっ──そうだな。急ぐ必要はない。思い切り選り好みしてやれ。」
エレツィアが、悪戯を思いついた子どものように微笑む。
「そうだわ、クロイツァーさま。それなら、まずはお見合いをする前に……」
そうして、クロイツァーに耳打ちをした。
「──なるほど。それは面白そうだ。」
クロイツァーも口角を上げる。
「……はぁ。」
向けられる視線を感じ、ヴィクトリアは小さく項垂れた。
平穏とは、案外こういう喧騒の中にあるのかもしれない。
そう、思うことにした。




