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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第三章
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第23話:我が妹へ ②

ふたりを下がらせたあと、

執務室には夜の静寂が降りていた。


クロイツァーは椅子を離れ、窓辺へと歩み寄る。

分厚い硝子の向こうでは、帝都の篝火が揺れていた。

その光に遮られ、星はほとんど見えなかった。


「……ふっ。始まる前に終わる恋、か。」

窓に映る己の顔を見つめながら、薄く笑う。

「そんなもの、三流の物語でも書かぬ。──道化だな、俺は。」


自嘲の言葉。

けれど、その声音には暗い翳りはなかった。

むしろ、どこか満たされたような静けさがあった。


脳裏に浮かぶのは、先ほどのヴィクトリアの顔。

黒曜の髪に、赤の瞳。

不安を湛えながらも、まっすぐにこちらを見つめていた。


(……随分と、人間らしい顔をするようになったものだ。)


思わず、口元がわずかに綻ぶ。

その瞬間、遠い記憶がゆっくりと甦った。



──赤い目をした女がいた。


帝都では滅多に見ぬ色。

血を思わせるその瞳を、不吉だと囁く者もいた。

だが、彼女は不思議なほど穏やかで、

夜の灯りのように柔らかく微笑む侍女だった。


母を亡くして間もない頃。

孤独に沈んでいた幼い俺の傍らで、

彼女は夜ごと物語を語ってくれた。

冷えた手を包み、灯火の下で絵本を読み聞かせてくれた。

その声は、風鈴のように澄んで、どこまでも優しかった。


──そして、ある日、彼女はいなくなった。


理由を問うても、誰も答えなかった。

“帝の戯れだ”という噂だけが、宮中に流れた。

だが、俺はその言葉を信じなかった。信じたくはなかった。


そして年月が流れ、幼き皇子は皇太子となり、

政と戦に追われるうちに、彼女の記憶は霧のように遠ざかっていった。


……だが。


あの日。帝国騎士団の入団式で、

俺は再び、その色を見た。


俺と同じ、漆黒の髪。

そして、あの侍女と同じ赤の瞳を持つ少女。

まだ若く、従僕のように素朴で、

それでいて気品を失わぬ、まっすぐな眼差しだった。


周囲は「ロムルス前騎士団長の忘れ形見」と囁いていた。

だが、俺には分かった。

──あの瞳の奥に宿る灯火のような静けさは、あの侍女のものだ。


帝が隠し、帝が棄てた命。

そして、血の半分を共にする──我が妹。


その瞬間、胸の奥に雷鳴が走った。

世界の輪郭が震え、息が詰まった。

皇太子として孤独に生きてきた人生に、

まだ“繋がり”が残っていたのだと。



俺は、ひとりではなかった。



彼女に真の身分を伝え、騎士を辞めさせようとも思った。

妾腹とはいえ、皇女として傅かれるべき娘。

命を危険に晒す必要など、どこにもない。


だが、俺は誤った。

そうするための判断と、根回しが遅れたのだ。

その間に、彼女は剣士としての才を見せつけ──

そして、瞬く間に“剣聖”の座へと昇り詰めた。

神に愛されたような才覚。

……その才を与えた神を、俺は呪った。


だからこそ、俺は彼女の後見を名乗り出た。

表向きの理由は、政治的な後ろ盾のない剣聖を守るため。

だが、真の理由は別だ。


妹を護るため。

そして、あの穏やかな侍女の笑みに報いるためだった。


──だが、その後、俺は再び誤った。


ノーレの策謀は、あまりに緻密だった。

帝国への洪水被害支援、交易拡張政策、

結婚式への使節派遣──すべてが布石。

何年もかけて信頼を築き、その果てに差し出されたのは、

毒を蜜に溶かしたような友好だった。


そして二年前。

友好国の皮を被りながら磨き上げられた刃が、ついに帝国の背を突いた。

少数の精鋭のみを用いることで、宰相の網にも掛からぬ、恐るべき情報統制と電撃戦。

その刃はまっすぐに、帝都へ向けられていた。


俺はエルスーア戦線にあり、手出しもできなかった。

帝都では、剣聖を中心に急拵えの防衛隊が編成され、

彼女はその先頭に立った。

『王国には送るな』とした俺の配慮が、裏目に出た。


その戦いで、彼女の瞳から光が消えた。

夜ごと悪夢にうなされながらも、

それでも彼女は剣を手放さなかった。


“剣聖”という名が、

いつしか彼女を縛る鎖になっていた。


誰よりも護りたかった妹が──

その誇りの中で、黒曜の殻に閉じこもり、心を殺した。


為政者としての、致命的な失策。

兄としての、取り返しのつかぬ罪。


(……俺は、護れなかったのだ。)


静かな風が木々を揺らし、篝火の影が壁を滑る。

その光の揺らめきが、まるで彼女の面影のように儚かった。



ノーレとの戦から時は進み、二年が過ぎた。

その間に、王国との和平が進み、政略婚姻の話が上がった。


王女の出迎えには、警護と牽制を兼ねて、黒曜の剣聖が選ばれた。

その報せを伝えたとき、妹は表情を変えなかった。


『──御意。』


硬い声。鞘に収められた刃の声音。

感情を押し殺した者の声だった。

その響きが胸に刺さる。

剣では届かぬ場所に、鈍い痛みが走った。


──だが、そこから妹は変わった。


帝都に戻ったときには、すでにその変化は明らかだった。

王国から輿入れした王女を見つめる瞳には、確かな光が宿っていた。

貴族の令嬢たちが俺に向ける情愛や憧憬とは異なる。

それは、“希望”という名の光だった。


まるで、長い夜を抜けて初めて朝日を見た者のように。

あの凍りついた瞳に、再び色が戻っていた。


それからの日々、黒曜の殻はゆっくりと崩れていった。

表情が柔らかくなり、言葉に熱が宿り、微笑みさえ浮かべるようになった。

あの無機質な剣が、再び人の心を取り戻していく様を、俺は息を潜めて見守った。


妹に、俺には分からぬ何かがあった。

その何かが何であれ、彼女はもう、前を向いていた。


そして、スラム街が焼かれた後のこと。

執務室でふたりと対面したとき──

妹は初めて、自分の意志で剣を抜いた。


『無礼を承知でお伺いします。

──殿下と宰相の間に、通謀はありませんね。』


その一言で、時が止まった。

あの黒曜が、俺を疑ったのだ。

命令に従うだけの剣だった彼女が、誰かのために、自分の判断で声を上げた。

その姿に、心が揺れた。


そして、あの言葉。


『今日と明日は地続きです。

より良い明日へは、今から歩き出すしかない。

だから、“今”、殿下のお力が必要です。』


過去に囚われていた妹が、“今”を見据え、“未来”を語った。

その事実だけで、胸の奥が熱くなった。


──あの王女がいたからだ。


王女には、心から感謝している。

俺には救えなかった心を、救ってくれた。

その女が、自らの妻となる。

そんな奇跡のような幸運を、信じてもいなかった神に感謝した。


……だが、ここしばらくのことだ。


ふたりが互いを見つめる眼差しは、もはやかつてのものではなかった。

そこには理性では抑えられぬ熱が宿り、

静かな焔のように、互いを焼き尽くそうとしていた。


さすがに、見過ごすことはできなかった。

呼び出して問いただすと、予想通りの答えが返ってきた。

お互いがお互いを想い合い、許されぬ関係に懊悩していたのだ。


解決は、簡単だった。


俺が──ふたりの関係を認めればいい。


王女との婚姻は政略であり、恋愛感情は初めからない。

そして、剣聖は他でもない、我が妹。

より強く結びついた両者を傍に置けるのならば、それはむしろ僥倖かもしれなかった。


頭の中で打算が巡る。

そこに情はない。ただ、秩序と均衡だけを見据えた思考。


──かつて黄昏の中で、妹が語った言葉が蘇る。


『王女殿下は、人の心に光を灯すお方です。

殿下も、きっと──いつかは。』


「……すまぬな、ヴィクトリア。」

呟いた声は、夜の風に溶けていった。


「“人を想う心”は、俺には分からぬままだろう。

──だが、それでいいのかもしれん。

その身を焼くほどの熱情は、皇帝には不要だ。」


ふと、窓の外に目を向ける。

帝都の夜は穏やかで、篝火の光が静かに揺れている。

星は相変わらず見えなかったが、

それでもしばらく、その空を見上げていた。

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