第23話:我が妹へ ①
月下の庭園での出来事の翌日。
朝靄の冷たさが残る謁見の間で、王女とその近衛は、皇太子の前に立っていた。
「婚約者どの、結婚式の段取りの件だが──」
「……。」
「婚約者どの?」
「……あっ、申し訳ありません。殿下。」
クロイツァーはわずかに眉を動かし、机上の書面へ視線を戻す。
「ふむ……疲れているようだな。こちらで差配しよう。少し休むといい。」
「お心遣い、痛み入ります。」
短い沈黙が落ちる。
その一拍の間に、空気が一層重く沈んだ。
「黒曜。結婚式での警備態勢についてだが──」
「……。」
「黒曜?」
「……っ、申し訳ございません。殿下。」
「……うむ。」
言葉が途切れ、時間だけが流れていった。
そんな日々が、一月にも及んだ。
長い冬がようやく過ぎ、
帝都の街路樹には淡い花が咲き始めていた。
⸻
結婚式を二ヶ月後に控えたある夜。
呼び出しを受けたふたりは、皇太子の執務室を訪れていた。
扉は封蝋で閉ざされ、護衛の影もない。
燭台の明かりが壁を揺らし、室内はまるで密議の場のような静けさに包まれていた。
クロイツァーは筆を置き、静かに顔を上げる。
その青い瞳には、探るような光が宿っていた。
「……ふたりとも。」
わずかな間を置いて、低く問う。
「俺に報告することは、ないか。」
確信めいた声音。
沈黙が、刃のように張りつめる。
ヴィクトリアは息を呑み、一歩進み出た。
その姿は凛としていたが、微かな震えを隠せなかった。
「殿下……私は近衛失格です。
想ってはならぬお方を、想いました。
罰するのならば、どうか私を。」
「そんな……!ヴィクトリア!
殿下、わたくしです。わたくしが悪いのです……!
軽率な行動を、わたくしが……!」
「……。」
皇太子は何も言わなかった。
ただ、ふたりの姿を見据えたまま、沈黙を貫いた。
夜風の通る音が、やけに大きく響く。
その風が、燭台の灯火を静かに揺らす。
痛いほどの静寂が、室内を満たした。
やがて、クロイツァーが深く息を吐く。
「……王族への不義密通は死罪。
ただし、黒曜の剣聖の功績と役職の重要性を勘案し、近衛の解任に留める。
以後、婚約者どのの護衛は近衛騎士が交代で行う。──二度と過ちは許されぬ。」
「……はっ。」
「……。」
ヴィクトリアは冷静を装っていたが、声音には悔恨が滲んでいた。
エレツィアは唇を噛みしめ、ただ俯く。
その時──。
「──と、これまでの俺ならば。そう言っていただろうな。」
「殿下……?」
「え……?」
クロイツァーは椅子の背にもたれ、わずかに笑った。
その笑みには、怒りも軽蔑もなく、どこか人間的な温度があった。
「ふ……喜べ、ふたりとも。
どうやら俺は、物分かりのいい夫の素質があるらしい。」
軽く息を吐き、立ち上がる。
燭台の光が、その輪郭に静かな影を落とす。
「はっきり言って、この婚姻は政だ。
互いに情などないことは、初めから承知している。
むしろ安心したぞ。黒曜ならば女同士だ。万に一つも、間違いは起こらぬ。」
皮肉のようで、どこか優しい響き。
その言葉に、エレツィアは息を呑む。
「婚約者どのが黒曜を選んだのも悪くない。
信頼できる者を傍に置くのは、為政者として賢明であろう。
そして、これは信頼できる。それは俺も思うことだ。」
そして、まっすぐにふたりを見据える。
青の瞳に、揺るぎない光が宿っていた。
「ですが……殿下。
それでは、わたくしたちに都合が良すぎます。殿下は……。」
「気にするな。」
クロイツァーは窓辺に目を向けた。
春の夜風が、帳の隙間から静かに吹き込む。
「どうしても気になるなら、こう思えばいい。
婚約者どのに、兄が一人増えたのだと。俺はそれで十分だ。」
そして、少し声を落とした。
その声音には、現実を受け入れた者の静かな重みがあった。
「……だが、婚約者どのは王女であり、皇太子妃となる身だ。
どれほど心を寄せる者があろうと、果たすべき務めはある。
それは両国を繋ぐ柱であり、俺たちが背負うべき現実でもある。
──理想を抱いた際の覚悟だけは、決して忘れるな。」
その言葉には、冷たさではなく、あるべき道を指し示す、年長者としての色が滲んでいた。
「……はっ。」
「はい……ありがとうございます、殿下。」
ヴィクトリアは深く頭を垂れ、
エレツィアの声は震えながらも、どこか晴れやかだった。
「ふっ……これで腑抜けた顔で結婚式に出ずに済むな。
──話は以上だ。ふたりとも、下がれ。」
「はっ。」
「はい。」
扉が閉じ、静寂が戻る。
けれどその静けさには、確かな希望の温度が残っていた。




