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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第三章
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第22話:人を愛するということ(後編) ②

「っ……エレツィア、様。どうしてここに……。」


「ラウラから聞いたの。最近、毎晩ここで月を見てるって。」


(ラウラ……あの心優しい侍女は、私の“想い人”を知らない。)

エレツィア様は、まっすぐにこちらを見つめていた。

夜風が薔薇の香を運び、沈黙がふたりの間に降りる。


「ねえ、ヴィクトリア。あなたの悩みって……もしかして、あの日のこと?」


「……!」


「やっぱり、そうなのね。」


エレツィア様は小さく息を呑み、微笑んだ。

その微笑みは、痛みを呑み込むような微笑だった。


「ごめんなさい……わたくしの軽率な行動で、貴女を苦しませてしまったわ。」


「そんなことは……エレツィア様……。」


「貴女はわたくしの近衛。そして、わたくしは皇太子の妻になる女。

そんなわたくしに想いを寄せられても……困ってしまうわよね。」


淡い声。けれど、その言葉の最後は、確かに震えていた。

胸の奥が、剣で貫かれたように痛んだ。


「心配しないで。もうすぐ結婚式だもの。

……この想いにも、区切りをつけるわ。

だから、これからも、よろしくね。」


そう言って微笑んだエレツィア様の頬を、ひと筋の涙が伝った。


「あれ……?わたくし、どうして……?」


彼女は涙を拭う。

だが、紫水晶の瞳からは、次々に涙がこぼれ落ちた。


「……ごめんなさい、ヴィクトリア。ちがう、ちがうのよ……わたくしは……。」


止めどなく流れる涙。

その姿を見て、気づいた時には──

もう、腕が動いていた。


私は、エレツィア様を強く抱きしめていた。



「ヴィクトリア……?」


腕の中で、彼女の体が小さく震える。

肌越しに伝わる鼓動が、戸惑いに揺れていた。

その鼓動の熱が、封じ込めていた感情の枷を焼き崩していく。

その温もりに突き動かされ、口が開いた。



「エレツィア様……私も、貴女のことを……お慕いしております。」



「え……っ。」


やめろ。それ以上言うな──理性が叫ぶ。

だが、胸の奥に滞っていた熱が、それを踏みにじった。

言葉が、あふれ出す。


「……初めは、忠義でした。

私の痛みを見つけてくれた貴女に救われ、

平和な時代を共に見ようという言葉に、希望を見た。

この方を護ることこそ、意味のあることだと信じてきました。」


一度、息を吸う。

唇が震える。


「けれど……名を呼ばれるたび、微笑まれるたび、胸の奥にあたたかいものが満ちていった。

そして、あの日──貴女に“愛している”と告げられた時、

ようやく気づいたのです。……これが、恋なのだと。」


あの日の誓いも、忠義も。

すべて、熱の中に溶けていく。


「エレツィア様が、私への想いを捨てようとしておられるのは分かっています。

……どれだけ想い合おうと、私たちは決して結ばれない。」


声音が、哀しみに染まる。


「未来のためには、捨ててしまう方が良い。

けれど、それでも……。」


視界が滲み、頬を伝う涙が、エレツィア様の肩に落ちた。

淡い香りが鼻をかすめ、彼女の息を呑む音が近くで震えた。


「エレツィア様……苦しいのです。

この気持ちを押し殺そうとするたびに。

胸が、張り裂けそうなほどに痛むのです。

私は近衛でなくては、貴女の剣でなくてはならないのに──堪えられないほど、つらい。」


沈黙。

月の光がふたりの間を滑り、吐息の音すら夜に溶けた。

涙の落ちる音だけが、確かに響いた気がした。


「……エレツィア様。あたしは、おかしくなってしまいました。

こんなあたしでは、もう貴女の傍にはいられない……。」


「ヴィクトリア……そんなこと、言わないで……!

私も、貴女のことが好き。好きなの……愛しているの……!

もう、貴女のいない世界なんて考えられない。

だからお願い……行かないで……傍にいて……!」


どちらの声も、涙に震えていた。

指先が、互いを求めて触れ合う。

冷えた夜気の中で、ふたりの体温だけが真実だった。


ふたりはただ、想いを確かめるように抱き合い、

どちらからともなく、唇を重ねた。

月明かりが、ふたりの影をひとつに溶かしていく。



「……どうして、あたしたちはこんな形で出会ってしまったのでしょうね。」

「そうね……私たちが、もっと純粋に愛し合える立場だったら。

こんな苦しみは、知らずに済んだのに。」


抱き寄せた温もりが、まるで願いの残滓のようだった。

この瞬間だけが現実で、それ以外のすべては夜の向こうにある。


互いの身体が触れるたびに、未来がほどけていく気がした。


愛は確かにここにあるのに──

明日には、もう届かない。


世界が止まっていた。

その一瞬だけは、永遠よりも儚く、美しかった。


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