第22話:人を愛するということ(後編) ①
皇太子と第一王女の正式な婚姻が報じられ、帝国全土がざわめいた。
戦の気配が消えぬ日々の中で、それは一筋の春風のように民の心を撫でた。
結婚式は半年後に定められた。
帝都は春を先取りしたように、花と祝福に包まれていく。
街には楽団が現れ、夜ごと広場で舞踏が開かれた。
帝国が、喜びの音色で満たされていた。
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婚姻が報じられてから、幾度目かの夜会の日。
煌びやかなシャンデリアが光を散らし、宝石のような杯が幾つも輝く。
その中心で、皇太子殿下とエレツィア様が並び、微笑みながら客人の祝辞を受けていた。
ふたりは堂々としていて、まるで絵画のようだった。
触れることも、近づくことも許されぬ、完璧な光。
私は会場の隅で、静かにその光景を見つめていた。
グラスの中の赤い酒が、月の光を受けて滲んで見える。
まるで、心の奥に沈んだものが、形を持たずに揺らいでいるようだった。
(私は……あの方の隣に立ちたいのだろうか。)
祝福の音楽が鳴るほどに、
彼女の立つ場所は明るく、私の立つ場所は暗くなっていく。
“近衛”という名の立場に守られながら、
心だけが、前に進めずにいた。
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三ヶ月が過ぎ、季節は静かに移ろった。
結婚式の準備は着々と進むのに、心だけが取り残されたままだった。
答えのない迷宮を、出口も見えずに彷徨うような日々。
ある日、エレツィア様が声をかけてきた。
「ヴィクトリア……最近、元気がないみたいね。」
その声音は、いつもと変わらず穏やかだった。
けれど、そこにある優しさが、今の私には眩しすぎた。
「……いえ。体調に問題はありません。」
そう言葉にした瞬間、胸の奥で小さく何かが軋んだ。
嘘をついたような痛みが、声の隙間に滲む。
エレツィア様は少し寂しそうに微笑んだ。
その笑みの柔らかさに、言葉が続かなかった。
「そう……?無理は、しないでね。」
その一言が、刃のように胸に刺さる。
護りたいと思ったその人に、秘め事をする。
それが、何よりも苦しかった。
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夜。
月が白く庭園を照らしていた。
噴水の水音だけが、静寂の中で細く響く。
風が頬を撫で、薔薇の香りが夜気に溶けていく。
私は月を仰いでいた。
茜の空の下でリュークスが残した言葉が、再び胸に蘇る。
『どこへ行こうとも、誰と結ばれようとも──
本当に考えるべきは、彼女の幸せだった。』
そうだ──その通りだ。
ならば、この想いは秘すべきだ。
伝えたところで、誰も幸せにならない。
彼女を困惑させ、苦しめるだけだ。
(感情を殺せ。……一振りの剣のように。)
今までそうしてきたように。
どれほど傷を負っても、立ち上がってきたように。
深い哀しみを呑み込んで、戦い続けてきたように。
想いは叶わずとも、
近衛である限り、あの方の側にはいられる。
それで十分──幸福だと、思い込めばいい。
「エレツィア様……。」
祈りのように、その名を呼ぶ。
夜風がその名をさらい、空へと溶かす──
……そのはずだった。
薔薇の香を運ぶ風が揺れた。
その中に、微かに別の気配が混じる。
「なぁに?ヴィクトリア。」
空気が震えた。
響くはずのない声が、背後から届く。




