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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第三章
33/82

第21話:人を愛するということ(前編) ②

夜。

帝都の灯が静まり、庭園の噴水が月を映す。

風が薔薇の香りを運び、水音が静かに響いていた。


ヴィクトリアは、ただ一人そこに立っていた。


(……私自身の、気持ち。)


浮かぶのは、エレツィアの微笑。

名を呼ぶ声。

触れた唇の熱。

胸の奥がきゅうと締めつけられる。

あたたかい。けれど、苦しい。

それが何なのか──まだ言葉にならない。


「もし……剣聖様。」


静かな声に、ヴィクトリアは振り向いた。

月光の下、侍女のラウラが立っていた。


「ラウラさん。こんな夜更けに、どうしました?」

「いえ……その、なにかお悩みのようでしたので。」


ヴィクトリアは一瞬ためらい、空を仰ぐ。

白い月が、雲の切れ間に浮かんでいた。


「……ラウラさん。“愛”とは、なんなのでしょう。

あの人の、微笑みが。私の名を呼ぶ声が。脳裏から離れない。……これは、“愛”なのでしょうか。」


「えっ……!?あ、いえっ……す、すみません!驚いてしまって!」

「そんなに、意外でしょうか。」

「い、いえ……でも、その……剣聖様も、女の子ですものね。」


照れくさそうに笑いながら、「私見ですが」と、ラウラはそっと言葉を紡いだ。


「剣聖様。貴女のそのお気持ちは、その方に向けた、確かな“愛”だと思います。

そして、“愛”とは何か、というご質問ですが……。」


「……。」


「“愛”って、人を愛することって、理屈じゃないものだと思うんです。」


「理屈では、ない……?」


「はい。その人のことを想うと、胸の奥から気持ちがあふれてくる。

その人の幸せを、誰よりも願ってしまう。

どんな時でも、心がその人を探してしまう。

……そんな想いは、理屈でも感情でも、押さえられません。」


風が庭園を渡り、噴水の水面が揺れる。

その揺らぎの中で、ラウラの声は柔らかく続いた。


「時には、それが悲しみになることもあります。

でも、それでも……人を愛することは、きっと“前を向く力”になるはずです。

わたしにとっての“愛”は、そんな素敵な力です。」


「……前を向く力。」


「はい。剣聖様は、とても優しくて、まっすぐな方です。

きっと、そんな方に愛されるなら──そのお相手も幸せですよ。」


ラウラは小さく頭を下げた。

「……だから、わたしは応援しています。」


ヴィクトリアの瞳が揺れ、それから、ゆっくり微笑んだ。


「……ありがとう、ラウラさん。」


「いいえ。……剣聖様の恋が、報われますように。」


目を見開く。

剣戟よりも鈍い衝撃が、脳裏を打つ。


「恋……これが、“恋”……。」


呟いた声が、水音とともに夜に溶けていった。

庭園の薔薇が、月光に照らされて静かに揺れていた。



翌朝。

城の回廊を渡る風が、白布を静かに揺らした。

婚礼の準備が進み、神殿の鐘が遠くで鳴る。

花弁が舞い、祝福のざわめきが帝都を包んでいた。


ヴィクトリアは、遠くからその光景を見つめていた。

胸に手を当て、目を閉じる。


(“恋”……護ること、想うこととは……違うのだろうか。)


指先に残る、あの温もり。

風が薔薇の香りを運び、朝の光が頬を照らす。

だが、その光は眩しすぎた。

祝福に満ちた世界の中で、自分だけが静止しているような気がした。


胸の奥で、何かが確かに動いている。

けれど、それは言葉にも形にもならない。

触れれば壊れてしまいそうなほど、脆く、あやふやで。


──その朝の眩しさの中で、

ヴィクトリアは初めて、自分が“わからない”という痛みに立ち尽くしていた。

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