第21話:人を愛するということ(前編) ②
夜。
帝都の灯が静まり、庭園の噴水が月を映す。
風が薔薇の香りを運び、水音が静かに響いていた。
ヴィクトリアは、ただ一人そこに立っていた。
(……私自身の、気持ち。)
浮かぶのは、エレツィアの微笑。
名を呼ぶ声。
触れた唇の熱。
胸の奥がきゅうと締めつけられる。
あたたかい。けれど、苦しい。
それが何なのか──まだ言葉にならない。
「もし……剣聖様。」
静かな声に、ヴィクトリアは振り向いた。
月光の下、侍女のラウラが立っていた。
「ラウラさん。こんな夜更けに、どうしました?」
「いえ……その、なにかお悩みのようでしたので。」
ヴィクトリアは一瞬ためらい、空を仰ぐ。
白い月が、雲の切れ間に浮かんでいた。
「……ラウラさん。“愛”とは、なんなのでしょう。
あの人の、微笑みが。私の名を呼ぶ声が。脳裏から離れない。……これは、“愛”なのでしょうか。」
「えっ……!?あ、いえっ……す、すみません!驚いてしまって!」
「そんなに、意外でしょうか。」
「い、いえ……でも、その……剣聖様も、女の子ですものね。」
照れくさそうに笑いながら、「私見ですが」と、ラウラはそっと言葉を紡いだ。
「剣聖様。貴女のそのお気持ちは、その方に向けた、確かな“愛”だと思います。
そして、“愛”とは何か、というご質問ですが……。」
「……。」
「“愛”って、人を愛することって、理屈じゃないものだと思うんです。」
「理屈では、ない……?」
「はい。その人のことを想うと、胸の奥から気持ちがあふれてくる。
その人の幸せを、誰よりも願ってしまう。
どんな時でも、心がその人を探してしまう。
……そんな想いは、理屈でも感情でも、押さえられません。」
風が庭園を渡り、噴水の水面が揺れる。
その揺らぎの中で、ラウラの声は柔らかく続いた。
「時には、それが悲しみになることもあります。
でも、それでも……人を愛することは、きっと“前を向く力”になるはずです。
わたしにとっての“愛”は、そんな素敵な力です。」
「……前を向く力。」
「はい。剣聖様は、とても優しくて、まっすぐな方です。
きっと、そんな方に愛されるなら──そのお相手も幸せですよ。」
ラウラは小さく頭を下げた。
「……だから、わたしは応援しています。」
ヴィクトリアの瞳が揺れ、それから、ゆっくり微笑んだ。
「……ありがとう、ラウラさん。」
「いいえ。……剣聖様の恋が、報われますように。」
目を見開く。
剣戟よりも鈍い衝撃が、脳裏を打つ。
「恋……これが、“恋”……。」
呟いた声が、水音とともに夜に溶けていった。
庭園の薔薇が、月光に照らされて静かに揺れていた。
⸻
翌朝。
城の回廊を渡る風が、白布を静かに揺らした。
婚礼の準備が進み、神殿の鐘が遠くで鳴る。
花弁が舞い、祝福のざわめきが帝都を包んでいた。
ヴィクトリアは、遠くからその光景を見つめていた。
胸に手を当て、目を閉じる。
(“恋”……護ること、想うこととは……違うのだろうか。)
指先に残る、あの温もり。
風が薔薇の香りを運び、朝の光が頬を照らす。
だが、その光は眩しすぎた。
祝福に満ちた世界の中で、自分だけが静止しているような気がした。
胸の奥で、何かが確かに動いている。
けれど、それは言葉にも形にもならない。
触れれば壊れてしまいそうなほど、脆く、あやふやで。
──その朝の眩しさの中で、
ヴィクトリアは初めて、自分が“わからない”という痛みに立ち尽くしていた。




