第21話:人を愛するということ(前編) ①
ノーレとの国交が皇帝の命によって断絶されて、一週間が過ぎた。
それでも帝都は、奇妙なほど静かな平穏に包まれていた。
人々は戦の終わりを祝い、商人たちは通りに声を響かせる。
だがその賑わいの底には、誰も言葉にしないざらついた不安が潜んでいた。
その朝、皇太子から呼び出しの伝令が届いた。
エレツィアとヴィクトリアが執務室へ入ると、クロイツァーは机上の書簡に印を押しながら、ちらりと顔を上げた。
その仕草一つにも、彼らしい無駄のない規律が滲んでいた。
「……長らく待たせたな、婚約者どの。──結婚式の日取りが決まった。」
静寂が落ちた。
紙に押された朱の印が乾く音が、やけに大きく響く。
エレツィアの肩がわずかに震えた。
数拍ののち、彼女はゆっくりと微笑んだ。
その笑みは、花のように柔らかく、それでいてどこか遠くを見ていた。
「まあ……嬉しゅうございますわ、殿下。ようやく、ですのね。」
声音は穏やかだった。
だが瞳の奥には、抑えきれない影が揺れていた。
“嬉しい”という言葉の奥で、何かを覆い隠すような静けさがある。
クロイツァーは小さく息をついた。
「うむ。これでようやく“役目”が整うな。」
言葉は理性的だったが、その声音のどこかに微かな逡巡があった。
彼自身もまた、“人を想う”という感情の輪郭を、手探りでなぞっていた。
朗らかに交わされる言葉の横で、
ヴィクトリアはただ、その光景を見つめていた。
胸の奥に沈む、鈍い痛み。
“自分の知らない何か”が、静かに遠ざかっていく感覚だった。
──そして、
思い出すのは、あの薔薇の庭園での出来事。
⸻
『びっくりさせてしまったわね。ごめんなさい。──このことは、どうか忘れて。』
あの口付け。
“愛している”と告げた声。
軽い感情ではないことくらい、愛を知らぬ自分にも分かっていた。
だが、どうしたらいいのか分からなかった。
胸の奥に、初めて言葉にならない渦が生まれる。
痛いのか、嬉しいのかも分からない。
ただ、心臓の奥が熱くなっていくのを感じた。
──誰かに、話を聞いてほしい。
生まれて初めて、そう思った。
⸻
第一騎士団への剣の教導の日。
エレツィアは、結婚式の段取りのために同行しなかった。
「──で、俺たちに相談って何だ?ヴィク。」
「珍しいな、まさか恋愛相談か?なんてな。」
第一騎士団所属の双子の騎士、アルバートとギルベルト。
歳が近く、特に気安いふたり。
そのふたりを教導の後、昼下がりの食堂に呼び出した。
湯気の立つスープの匂いと、ざわめき。
ヴィクトリアは少し逡巡してから、切り出した。
「実は、ある方から……“愛している”と、言われた。」
「おわぁっ!?」
「まじで恋愛相談か!?」
周囲の騎士たちが息を呑み、耳をそばだてる。
“堅物のヴィクトリアが恋愛相談”──その衝撃が波紋のように広がった。
「ちなみに……誰だ?」
「それは……答えられない。」
(……っ!?)
「“愛してる”以外に、なにかあったのか?」
「その……口付けを、賜った。」
(……ッ!?)
一瞬で空気が凍った。
笑いも消え、椅子の軋む音だけが響く。
アルバートとギルベルトが互いに目を見合わせた。
「あー……その、なんだ。受けてもいいんじゃねぇか?」
「その方の立場を考えると……とても受けられない。」
「「ちょ、ちょっと待った!」」
ふたりは顔を寄せて小声で話す。
「ギル…これ、“黎明の花”のことだろ……?」
「ああ、アル……場合によっちゃ、ヴィクが命落とすやつだ。」
「……どうすんだ……?」
「……どうするか……。」
しばしの沈黙。
やがて、アルバートが真顔で言った。
「なぁヴィク。大事なことだから聞くけどよ……お前自身の気持ちはどうなんだ?」
「私自身の、気持ち……?」
言葉が止まり、時間が止まったように感じた。
胸の奥が静かに痛む。
ヴィクトリアは、ただひとつの言葉を絞り出す。
「……分からない。」
アルバートが息を吐いた。
「そっか。なら、まずはそれと向き合うとこからだな。」
「俺たちは味方だ。──焦るなよ。」
「……ありがとう、アル、ギル。」
ふたりは笑った。
どこか不器用で、温かい笑みだった。
その笑みが、ヴィクトリアの胸にほのかな光を落とした。




