幕間:帝国の老梟
帝都の夜は、いつにも増して静かだった。
外では風が石畳を撫で、遠くの鐘楼がゆるやかに時を告げる。
高天井の執務室には、重厚な書棚と古い地図、そして数十年の権謀を支えてきた巨大な机。
無数の燭台の光が、壁に映る一つの影を揺らしている。
それは、老いた梟のように、静かに目を光らせていた。
影の主──帝国宰相、バラウン・ファーガス侯爵。
茶の混じった白髪を撫でながら、机上の報告書に目を落とす。
そこには、はっきりと“敗北”の二文字が並んでいた。
静かに息を吐く。
……目論見は、上手くいっていたはずだ。
地方諸侯の不満を煽り、皇太子には決して悟らせぬよう手を回した。
時期を見計らい、地方の反発をそれとなく耳に入れ、皇太子を帝都から引き離す。
一方で、ノーレの目論見は黙認した。
欲望に塗れた愚者は、利用するに限る。
第一王女への工作も容認し、事の成り行きを観察するに留めた。
剣聖がノーレの毒の証拠を掴んだことも、既に把握していた。
伝令線の一端を押さえておけば、文書の写しを得るなど造作もない。
第一王女と剣聖がスラム街へ赴いたことも、すべて知っていた。
──だが、そこで予想外の出来事が起きた。
まさか、第一王女が“ノーレの毒”を解毒するとは。
“医術の心得があった”など初耳だったが、それほどの技量を持ちながら、たった一人を救って満足するとは……愚直にも程がある。
……あれが“王女”でさえなければ、褒めてやったものを。
そうして、スラムの民と心を通わせたところで──そのスラムを“粛清”する。
蝶よ花よと育てられた王女が、その光景を目の当たりにすれば心は折れる。
現実を知るには、それで充分だと思っていた。
実際、しばらくは折れていた。
だが──あの小娘は立ち上がった。
瞳に灯を宿し、再び前を見据えた。
それどころか、皇太子までも巻き込み、我が足元を削り始めた。
あの現実主義の若造が、人の情に動かされるとは思わなかった。
まことに、予想外続きだ。
だが、それならばそれで構わぬ。
若造どもが国内に目を向けている間に、
外の毒は静かに育っていた。
密偵網の内側は相当に削られたが、外には未だ“影”が残っている。
ノーレの蠢きも、王国の軍の動きも──すべて見えていた。
だが、あえて放置した。
兵を挙げたのは、パドレ侯爵家の跡取りを筆頭に、王国の次代を担う若者たち。
奴らが死ねば、親は悲しみ、憎悪は国を蝕む。
そして、教会騎士団にはノーレから“毒”が渡っていた。
毒が戦場を覆えば、帝国は王国を憎み、王国は帝国を呪う。
和平など、砂の城と同じ。
脆く、儚く、消える運命。
──そのはずだった。
だが結果は、すべて裏目に出た。
皇帝の采配もあったが、しかし。
皇太子、そして剣聖の働きによって、
若者たちは生き、陰謀は暴かれ、平和は続いた。
白日の下に晒されたのは、ノーレただひとつ。
書簡を閉じる音が、執務室に響いた。
老宰相は深く背もたれに身を沈め、独り言のように呟く。
「……次代を担う者、か。」
その言葉が、燭の火に溶けた。
かつて、自身にも“次代”と呼ばれる時があった。
…そして、己にも、そう呼ぶ者がいた。
“我が子こそが、帝国を導く次の宰相となる。”
──そう信じていた。
だが、王国から送られてきたのは、ただの木箱だった。
冷たく、静まり返った棺。
その夜、老宰相は泣かなかった。
涙の代わりに、胸の奥に炎が宿った。
その黒い炎が今も、心臓の奥で絶えぬ憎しみを薪として燃えている。
和平など、ありえぬ。
理想など、虚飾だ。
あの憎しみを、どうして忘れられようか。
我が子の死を、どうして無かったことにできようか。
それでも、帝国と王国は結びつきを強めていく。
皇太子と王女の婚姻。
それを“希望“と呼ぶ者もいる。
だが──老宰相にとって、それはただの侮辱だった。
「……ふん。希望など、毒よりも質が悪い。」
机の端に置かれた地図に、老いた指先が触れる。
アルドレア大陸全図。
その視線が、ゆっくりと北へと移っていく。
帝国北端の地、背骨山脈すら越えて、雪に閉ざされた最北の果て──“魔族領”。
大陸の誰もが忘れかけていた、現世に口を開けた地獄。
「言葉が通じる相手ならば、話し合いの余地もあろう。
だが……初めから“争い”しか知らぬ相手に、それが出来るかな?」
静かな独白が、闇に吸い込まれる。
その声は冷たくも、どこか愉悦を含んでいた。
老梟の目が、ゆるやかに光を宿す。
まだ折れてはいない。
その翼は、音もなく闇を掠め──
北の果てで、誰かがその影の導きに応えるように、静かに目を開けた。




