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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
31/82

幕間:帝国の老梟

帝都の夜は、いつにも増して静かだった。

外では風が石畳を撫で、遠くの鐘楼がゆるやかに時を告げる。


高天井の執務室には、重厚な書棚と古い地図、そして数十年の権謀を支えてきた巨大な机。

無数の燭台の光が、壁に映る一つの影を揺らしている。

それは、老いた梟のように、静かに目を光らせていた。


影の主──帝国宰相、バラウン・ファーガス侯爵。

茶の混じった白髪を撫でながら、机上の報告書に目を落とす。


そこには、はっきりと“敗北”の二文字が並んでいた。


静かに息を吐く。

……目論見は、上手くいっていたはずだ。


地方諸侯の不満を煽り、皇太子には決して悟らせぬよう手を回した。

時期を見計らい、地方の反発をそれとなく耳に入れ、皇太子を帝都から引き離す。


一方で、ノーレの目論見は黙認した。

欲望に塗れた愚者は、利用するに限る。

第一王女への工作も容認し、事の成り行きを観察するに留めた。


剣聖がノーレの毒の証拠を掴んだことも、既に把握していた。

伝令線の一端を押さえておけば、文書の写しを得るなど造作もない。


第一王女と剣聖がスラム街へ赴いたことも、すべて知っていた。

──だが、そこで予想外の出来事が起きた。


まさか、第一王女が“ノーレの毒”を解毒するとは。

“医術の心得があった”など初耳だったが、それほどの技量を持ちながら、たった一人を救って満足するとは……愚直にも程がある。

……あれが“王女”でさえなければ、褒めてやったものを。


そうして、スラムの民と心を通わせたところで──そのスラムを“粛清”する。

蝶よ花よと育てられた王女が、その光景を目の当たりにすれば心は折れる。

現実を知るには、それで充分だと思っていた。


実際、しばらくは折れていた。

だが──あの小娘は立ち上がった。


瞳に灯を宿し、再び前を見据えた。

それどころか、皇太子までも巻き込み、我が足元を削り始めた。

あの現実主義の若造が、人の情に動かされるとは思わなかった。

まことに、予想外続きだ。


だが、それならばそれで構わぬ。

若造どもが国内に目を向けている間に、

外の毒は静かに育っていた。


密偵網の内側は相当に削られたが、外には未だ“影”が残っている。

ノーレの蠢きも、王国の軍の動きも──すべて見えていた。

だが、あえて放置した。


兵を挙げたのは、パドレ侯爵家の跡取りを筆頭に、王国の次代を担う若者たち。

奴らが死ねば、親は悲しみ、憎悪は国を蝕む。


そして、教会騎士団にはノーレから“毒”が渡っていた。

毒が戦場を覆えば、帝国は王国を憎み、王国は帝国を呪う。

和平など、砂の城と同じ。

脆く、儚く、消える運命。


──そのはずだった。


だが結果は、すべて裏目に出た。

皇帝の采配もあったが、しかし。

皇太子、そして剣聖の働きによって、

若者たちは生き、陰謀は暴かれ、平和は続いた。

白日の下に晒されたのは、ノーレただひとつ。


書簡を閉じる音が、執務室に響いた。

老宰相は深く背もたれに身を沈め、独り言のように呟く。


「……次代を担う者、か。」


その言葉が、燭の火に溶けた。

かつて、自身にも“次代”と呼ばれる時があった。

…そして、己にも、そう呼ぶ者がいた。


“我が子こそが、帝国を導く次の宰相となる。”

──そう信じていた。


だが、王国から送られてきたのは、ただの木箱だった。

冷たく、静まり返った棺。


その夜、老宰相は泣かなかった。

涙の代わりに、胸の奥に炎が宿った。

その黒い炎が今も、心臓の奥で絶えぬ憎しみを薪として燃えている。


和平など、ありえぬ。

理想など、虚飾だ。

あの憎しみを、どうして忘れられようか。

我が子の死を、どうして無かったことにできようか。


それでも、帝国と王国は結びつきを強めていく。

皇太子と王女の婚姻。

それを“希望“と呼ぶ者もいる。

だが──老宰相にとって、それはただの侮辱だった。


「……ふん。希望など、毒よりも質が悪い。」


机の端に置かれた地図に、老いた指先が触れる。

アルドレア大陸全図。

その視線が、ゆっくりと北へと移っていく。

帝国北端の地、背骨山脈すら越えて、雪に閉ざされた最北の果て──“魔族領”。

大陸の誰もが忘れかけていた、現世に口を開けた地獄。


「言葉が通じる相手ならば、話し合いの余地もあろう。

だが……初めから“争い”しか知らぬ相手に、それが出来るかな?」


静かな独白が、闇に吸い込まれる。

その声は冷たくも、どこか愉悦を含んでいた。


老梟の目が、ゆるやかに光を宿す。

まだ折れてはいない。

その翼は、音もなく闇を掠め──


北の果てで、誰かがその影の導きに応えるように、静かに目を開けた。


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