第20話:嵐の向こうに見えたもの ②
夜。
華やかな祝宴が終わり、帝城の喧騒が息を潜めたころ。
薔薇の庭園は、静寂の海のように広がっていた。
月光が花弁を撫で、露が銀の粒となって瞬く。
その光の中に、白いドレスを纏ったエレツィア様が立っていた。
その白さが、夜の闇に溶けるたび、息をすることさえ忘れそうになる。
風に揺れる金糸の髪が、夜の静けさを破る唯一の動きだった。
「……エレツィア様。ただいま、戻りました。」
「おかえりなさい、ヴィクトリア。」
紫水晶の瞳が、柔らかく光を宿す。
その微笑みを見た瞬間、胸の奥で張り詰めていた糸がふっと解けた。
挨拶の後、戦場のことを問われ、私は慎重に言葉を選んで語った。
戦が避けられたこと、リュークスと立ち合ったこと。
そして彼が、自ら罪を背負い歩む道を選んだこと。
「……そう。リュークスに、会ったのね。」
エレツィア様の声が、夜気に溶ける。
「よかった……彼が生きていて。
あの子は、大切な幼馴染なの。」
その声音には、懐かしさと痛みが入り混じっていた。
月明かりの下で、彼女の横顔は悲しみではなく、
まるで祈りのように静かだった。
「それにしても──」
ふいに微笑みが戻る。
「ずいぶん無茶をしたのね。リュークスと一騎打ちだなんて。」
「エレツィア様をお護りするために、必要でした。」
「私を……?」
「ええ。王国の血も、帝国の血も、流させないために。」
リュークスの言葉が胸の奥で蘇る。
『流れた血の分だけ、彼女は涙を流すに決まっています。』
(──この方は、すべての命を慈しむ人。
だからこそ、その“心”まで、護らねばならない。)
「……あの星空の夜から、ずっと考えていました。“護る”とは何かを。敵を斬るだけでは足りない。貴女の想いも、祈りも、絶望さえも──護りたいと。」
言葉を吐くたびに、胸が熱を帯びていく。
視線を上げると、エレツィア様の瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
その瞳に映る自分が、初めて“剣”ではなく“人”に見えた気がした。
「……今回、ようやく“貴女を護る剣”を選べた気がします。」
そう言って微笑む。
胸の奥には、あたたかな光が満ちていた。
その言葉に、エレツィア様の唇がかすかに震えた。
「ヴィクトリア……」
彼女はそっと一歩、近づいてくる。
月光が金の髪を縁取って、まるで女神の纏う絹のようだった。
「──ねえ、ヴィクトリア。少し、屈んでくれるかしら。」
言われるままに膝を折ると、目線が並んだ。
その距離は、息が触れ合うほど近い。
温かな手が頬に触れる。
その瞬間、世界の輪郭が柔らかくほどけていった。
「安心して。初めて出会った時からずっと、
貴女は私を護ってくれている。」
紫水晶の目が閉じられ、唇が触れる。
それは音のない口づけ。
月の光がふたりの間を照らし、星々が静かに瞬く。
一瞬、時間が止まった。
花々が風を忘れ、夜が息を潜めた。
「──愛しているわ、ヴィクトリア。」
薔薇のように染まった頬、潤んだ瞳。
その声は、祈りにも似ていた。
優しく、それでいて強く、確かな誓いの響きを持っていた。
月下の花弁が揺れ、夜風が薔薇の香を運ぶ。
ふたりの影が淡い月光に溶ける。
その静けさの中に、ふたりの鼓動だけが、まだ夜を生かしていた。
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数日後。
帝都大広間──天井の高い大理石の間には、
黄金の燭台が並び、百の光が壁の装飾に反射していた。
絹と鉄、宝石と勲章。
帝国のすべての栄光が、この一日のために集められている。
玉座には、老いた皇帝が座していた。
白髪は雪のように光り、瞳は未だ鋼の色を失っていない。
彼が立ち上がるだけで、空気が変わる。
「──この度は大義であった。」
掠れた声でありながら、場を支配する威を持っていた。
「諸君らの尽力により、帝国と王国、両国の安寧は保たれた。」
群衆の間から歓声が上がる。
軍人たちは拳を掲げ、貴族たちは手を打ち鳴らした。
「クロイツァー、そして“黒曜の剣聖”。
そなたらは、我が帝国の誇りにして至宝である。」
拍手が嵐のように広がる。
騎士たちの声が重なり、天蓋を震わせる。
花弁が舞い、音楽が高らかに鳴り響いた。
──その栄光の只中で、
皇帝はゆっくりと手を上げた。
音が止む。
静寂が、大広間を覆う。
老帝の瞳が細まり、声が低く響いた。
「──だが。」
その一言だけで、空気が張り詰めた。
「ノーレの暗躍を、これ以上許してはならぬ。
疾く、撃滅せよ。」
音が消えた。
人々は呼吸を忘れ、互いの顔を見交わす。
拍手の余韻だけが、虚しく空間を揺らしていた。
祝福の場は、一瞬にして戦の気配に染まる。
光が陰に変わり、笑みが凍りつく。
クロイツァーはわずかに目を伏せた。
エレツィアの瞳が、不安に揺れる。
ヴィクトリアの背筋が、静かに伸びる。
(……また、戦を。)
皇帝の杖が石床を叩く音が、響く。
それは、帝国全土に響き渡る宣戦の鐘のようだった。
かくして、
平和を讃える祝宴の中で、次なる嵐の種が蒔かれた。
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夜は明けた。
だが、夜は再び訪れる。
より深く、より暗く。
帝国の東──闇の底で策謀の果てに蠢くもの。
大陸の北の果て──戦と混沌を糧とするもの。
平和を憎むものたちが牙を研ぎ、
大陸の陰に身を潜める。
帝国と王国に、再び“夜”が訪れるのは、そう遠くない。
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第二章 沈黙と祈りの間奏曲 完
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