第2.5話:曇天に咲く花のように
その日は、曇り空だった。
鉛色の雲が低く垂れ込め、王城の塔を覆うように沈んでいる。
息を吸うたび、肺の奥が冷たく締めつけられた。
──剣を抜く前の静寂に似ている。
私は、帝国の使節団の一員として城門前に立っていた。
騎士服の隙間を抜ける風が、静かに身体をなぞる。
胸中で淡々と、出立前の命令を反芻する。
「“剣聖”である貴様を第一王女の警護につける──反対派も、その意味を正しく理解してくれるといいんだがな。」
皇太子殿下の声には、皮肉とも憂いともつかぬ響きがあった。
帝国内の終戦反対派が、今回の輿入れを潰そうとしている。
平和の象徴が血に沈むわけにはいかない。
そうした懸念が、“畏怖の象徴”を王女の警護に当てがった。
「……御意。」
それ以上の言葉は要らなかった。
戦のために在る剣が、平和を護る任に就く──皮肉なことだ。
だが、私はただ、“剣”としてその命に従う。
そう思ってしまえるほど、
“護る”という言葉の意味を、私はもう忘れかけていた。
⸻
やがて、城門の向こうが騒がしくなった。
王族が出立の見送りに来たようだ。
国王、王妃、王子たちが揃って見送るなど、騎士には理解し難い。
(命を落とすわけでもないのに、大袈裟な……。)
そう思いながら、視線を上げた瞬間──
光が差し込んだ。
雲の裂け目を縫うように、豊かに波打つ金糸の髪が揺れた。
紫水晶の瞳。風が彼女の衣の裾を掠め、侍女たちが自然と下がる。
まるで花弁が静かに開くように、空気が一瞬止まった。
この距離からでも分かる。彼女こそ、“王国の花”。
私は一歩、前に出た。
ふたりの距離が縮まる。
視線が交わった瞬間、胸が鳴る。
戦場で矢が掠めた時のような、微かな衝撃。
──これは畏怖だろうか?
違う。
もっと静かな、強者と剣を合わせる前の緊張に似ている。
「貴女が、隊長かしら?」
鈴のように澄んだ声。
けれど芯のある響きが、空気を震わせる。
その音に触れた瞬間、胸の奥で何かが僅かに跳ねた。
私は反射的に、片膝をついた。
完璧な礼。叩き込まれた所作に、迷いはない。
──けれど、指先が静かに震えたのを、自分でも感じた。
「お初にお目にかかります、第一王女殿下。
帝国第一騎士団所属、ヴィクトリア・ロムルスと申します。
これより帝都までの五日間、警護を担当いたします。」
声は澄んでいた。
だが、底に僅かな硬さを含んでいた。
長く刃を鞘に収めてきた者の声。
理想を忘れかけた剣の音。
彼女は私を見つめ、何かを言いかけて、止まった。
薄く開いた唇が震える。
「……殿下?」
そう問いかけると、
彼女ははっとして、微笑んだ。
それは儀礼ではない。
天の隙間から差す陽のような、柔らかな笑みだった。
「あ──失礼しましたわ。あの、かの名高い剣聖に護っていただけるなんて思わなくて。ずいぶん、お若いのね。」
「……仰る通り、私は若輩者でございます。」
「いえ、そういう意味ではなくて。わたくしと同年代なのかしらと思って、嬉しくて。」
「……はい。」
言葉を返すたび、どこか胸の内に違和感が走る。
戦場では感じたことのない種類の“緊張”だ。
何をどう答えても、この人の前では不器用になる気がした。
彼女と視線を交わすたび、胸の内側がじんわりとした熱を持つ。
その笑顔は、この場でただひとつ光を持っていた。
目を逸らしたくなるほど眩しいのに、不思議と暖かい。
緊張に強張っていた手の力がほんの少しだけ緩む。
ふと、忘れかけていた義父の教えが脳裏をよぎった。
“護るために剣を振るえ”
(──この人を護ることは、きっと意味のあることだ。)
そう直感した。
今はその“護る”という言葉が、どんな形をしているのかは分からない。
その剣が、誰かの命を奪うことになる日が来るかもしれない。
それでも、私はこの人を──。
(護る。どんな空の下でも。)
馬がいななき、行列が動き出す。
手綱を握る指に力を込め、私は視線を空に向けた。
光はすぐに雲に飲まれ、また灰色が戻る。
だが、その色の中にも微かな温度が残っていた。
──曇天の中でも、確かに一輪の花は咲いていた。




