第19話:人を想うということ
夕陽が、戦場を赤く染めていた。
王国軍はゆっくりと列を組み、帰還の途についている。
踏み締められた草の匂い、冷えた鉄の匂い、そして──もう響かぬ弓弦の余韻。
風が吹き抜けるたび、旗の裂け目がはためいた。
その丘の上に、三人が立っていた。
クロイツァー、ヴィクトリア、そしてリュークス。
戦の終わりの静寂の中、クロイツァーが封をされた書簡を差し出す。
金の印章には、獅子の紋。皇太子自らの印だった。
「……王国に戻れば、厳罰は免れまい。」
低く響く声に、風が応える。
「この親書を持っていけ。ノーレの陰謀を記し、減刑を嘆願したものだ。
少なくとも、命は繋げる。」
リュークスは、わずかに沈黙してから首を横に振った。
「……いえ。俺たちの浅慮が、王国にも帝国にも傷を残しました。
もし和平が崩れていれば、もっと多くの血が流れていた。
それを思えば……死罪でも、仕方ありません。」
クロイツァーの眉がかすかに動いた。
だが、リュークスはまっすぐ顔を上げ、ふたりを見つめた。
「それでも──感謝しています。
俺の命を救ってくれて。俺の暴走を、止めてくれて。」
風が三人の間を通り抜ける。
遠くで陽が地平の果てに沈み始めていた。
「……エレツィアに、恋をしていました。昔から。
幼い頃からずっと、彼女の隣に立つのは自分だと、無邪気に信じていた。」
ヴィクトリアがわずかに目を伏せる。
リュークスは静かに言葉を続けた。
「皇太子殿下……あなたには嫉妬もありました。
けれど、俺は間違っていた。
どこへ行こうとも、誰と結ばれようとも──
本当に考えるべきは、彼女の幸せだった。」
最後の言葉は、祈りのように静かだった。
それは誰に向けたものでもなく、ただ空へ溶けていく懺悔の響きだった。
ヴィクトリアが、穏やかに口を開く。
「リュークス殿、あなたは、それができていたのです。
……できていたからこそ、大司教につけ込まれてしまった。
誰かを“想う”ということは、それほどに脆く、それほどに尊い。」
リュークスは小さく微笑んだ。
「……それでも、俺は違う手を取るべきでした。
戦なんかで無理に連れ戻しても、エレツィアは決して笑わない。
流れた血の分だけ、彼女は涙を流すに決まっています。」
彼はゆっくりと息を吸い、夕陽の光を受けながら口を開いた。
「だからこそ、俺は償います。
罪を背負い、生きることが許されるのなら、今度こそ、この命を──王国と、帝国のために使いたい。」
その言葉には、潔さと同時に、静かな炎があった。
ヴィクトリアの赤い瞳が、微かに揺れる。
「おふたりのことは、忘れません。さようなら。
……皇太子殿下、どうか、王女殿下とお幸せに。」
リュークスは一礼し、夕陽の方へ歩き出した。
長い影が地面に伸び、黄金の風に溶けていく。
誰も、何も言わなかった。
ただ、その背を黙って見送るだけだった。
やがてその姿が黄昏の中に消えたとき、クロイツァーがぽつりと呟いた。
「……人を想う心、か。俺には、まだ分からない。」
ヴィクトリアが、少しだけ微笑んだ。
「王女殿下は、人の心に光を灯すお方です。
殿下も、きっと──いつかは。」
クロイツァーはしばし黙し、
やがて遠くの空を見上げた。
西の果てで、太陽が沈もうとしている。
「……そうか。
いや、お前が言うのなら──きっと、そうなのだろうな。」
夕陽が沈み、夜が訪れる。
しかしその空のどこかには、確かに灯る小さな光があった。




