第18話:祈りを砕く剣(後編) ②
早朝。
夜の気配がまだ消え切らぬ、群青の戦場。
冷たい風が草原を渡り、夜露の光が兵士の鎧を濡らしていた。
帝国の砦門から一人の青年が歩み出る。
リュークス・パドレ。
──解放の条件はただ一つ。
“自らの判断で、この戦を終わらせること”。
王国陣に戻ると、仲間たちが駆け寄った。
「リュークス!無事だったか!」
「リュークス殿、心配していましたよ!」
その声を聞きながらも、彼の顔には笑みがなかった。
ゆっくりと仲間を見渡し、低く告げる。
「……みんな、聞いてくれ。
俺は昨夜、“この戦の正体”を見た。」
その声音は静かで、しかし揺るぎない決意を帯びていた。
⸻
総大将・大司教の幕舎。
その周囲は王国兵の姿がなく、代わりに教会騎士が取り囲んでいた。
純白の布がはためき、香炉の煙が淡く立ちのぼる。
祈祷書と香の匂いが入り混じり、まるで礼拝堂のような静けさが落ちていた。
奥に、金糸の法衣を纏った大司教が座している。
その微笑は整いすぎていて、慈悲の象徴ではなく、仮面のようだった。
「心配していたのですよ、リュークス殿。ご無事で何よりです。」
微笑の仮面を付けたまま、そう囁く。
「──あの剣聖と渡り合うとは素晴らしい。どうかこの戦でも存分にお力を。」
「……そのことですが。」
リュークスは息を整えた。
「昨日、暗殺されかけました。」
一瞬で幕舎の空気が張り詰める。
大司教は表情を変えず、穏やかに問い返した。
「……それは穏やかではありませんね。帝国はそこまで堕ちましたか。
必ずや、報いを受けさせましょう。」
「いいえ。」
リュークスは懐から小瓶を取り出した。
透明な液体が光を反射する。
「刺客が使っていたのは──ノーレの毒でした。」
「……ノーレの毒?」
大司教の声は静かだった。
その瞬間、リュークスの胸に、かすかな希望がよぎった。
(……誤解であってくれ。俺の信じた“正義”が、そんなものであるはずがない──)
だが、次の瞬間。
大司教の眉がわずかに動いた。その表情を、リュークスは見逃さなかった。
「……聞いたこともありませんね。リュークス殿、あなたは帝国に唆されているのですよ。」
その言葉を遮るように、リュークスは燭台を手に取った。
瓶を掲げ、炎にかざす。
液体がじわりと、妖しい紫に変色する。
幕舎に、焦げた香が漂った。
「ノーレの毒は無味無臭。通常の手段では見抜けません。
……ですが、火にかければ必ず紫に変わる。」
紫に染まった液体を前に、
大司教の顔色が露骨に変わった。
「……中身をご存じなのですね。」
リュークスの声が静かに震える。
「知らぬはずの毒を見て、顔色を変える理由は、一つしかない。」
⸻
大司教はゆっくりと立ち上がった。
微笑の仮面を外したその目は、
信仰を捨てた修道者のように冷たく、乾いていた。
同時に、二人の教会騎士が幕舎の入口に立ち塞がる。
「……残念ですよ、リュークス殿。本当に残念です。」
「……大司教様。」
「あなた方はよく踊ってくれました。本当に。
ですが、知りすぎた者は──長くは生きられません。」
リュークスの拳が震えた。
「……俺を、殺すつもりですか。」
「殺す?ふふ、そんな生々しい言葉を。
あなたはまだ分かっていないようですね。」
大司教の目に、冷たい笑みが宿った。
「決闘の場で放たれた矢──あれも、我らの手の者です。
あなたが戦死すれば、帝国への憎悪は燃え上がり、王国は総力戦に突き進む。
その戦に赴くのは、あなたのような“次代の旗手”たちだ。
若く、誇り高く、理想に燃える“愚か者”ども。」
ゆっくりと、彼は言葉を重ねる。
「王国の次代を担う者たちが死ねば、国は衰える。
帝国との和平は崩れ、大陸は再び血に染まる。
そしてノーレは、“正義の仲裁者”として立つのです。
信仰と資源を独占し、両国の疲弊を糧に繁栄する。
──これほど美しい摂理が、他にありますか?」
リュークスの瞳が揺れた。
大司教の声は甘く、祈りのようで、しかし底知れぬ悪意を孕んでいた。
「……それが、お前たちの“神の意志”だと。」
「ええ。神は常に選ばれし者の側にあります。
あなた方の犠牲も、すべて神の糧となるのです。」
リュークスは静かに息を吐いた。
その瞳の奥に、もはや迷いはなかった。
「ちょうど良いではありませんか。」
大司教の唇が冷徹に歪む。
「ここにノーレの毒がある。
あなたは帝国に毒を盛られた。そう記せば済む話です。」
「ご安心なさい。帝国も、王国も、剣聖も、王女も……いずれは神の御許に還る。神こそが万物の支配者。
──あなたは一足先に、其処へ還るだけのこと。」
そう嘯く声音は、あくまで静かで、優しかった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、リュークスの中で何かが音を立てて切れた。
王国の誇る若獅子が、決別の咆哮を上げる。
「──取り押さえろ!」
⸻
「……今だ!」
リュークスの叫びと同時に、幕舎の布が切り裂かれた。
幾人もの王国騎士が雪崩れ込む。
入口に立ち塞がった教会騎士も、すぐに打ち倒された。
驚愕する大司教。
「ば、バカな!外は教会騎士が警護していたはず──!」
王国騎士たちが冷笑を浮かべた。
「ノーレから来たばかりでご存じないようですがね、大司教閣下。
俺たちは帝国の侵攻を幾度も退けた“王国騎士”ですよ。
祈りながら剣を錆びさせる坊主どもとは違う。」
「そういうことです。ちょっと静かにしててもらうくらい、朝飯前なんですなぁ。」
リュークスの背後から、共に挙兵した若い貴族たちが続く。
その声は震えていたが、確かな勇気が宿っていた。
「全部、聞かせてもらった。
俺たちは──ノーレの操り人形じゃない!」
大司教の表情が歪む。
怒り、恐怖、そして狂信の光。
「貴様ら……リュークス!この裏切り者めが!」
リュークスは一歩踏み出し、まっすぐに指を突きつけた。
「謀ったのはお前だ!この戦は終わりだ!」
その声が、幕舎の外まで響く。
「俺たちはノーレと教会に騙されていた!
帝国と争う理由など、どこにもない!」
外で聞いていた王国兵たちがざわめく。
その波はやがて怒号へと変わった。
残った教会騎士たちは慌てて剣を抜くが、もはや抵抗は無意味だった。
白い幕舎の中に朝日が差し込む。
紫の毒瓶が光を反射し、床に落ちて砕け散った。
刺すような香りの中で、リュークスは静かに息を吐く。
「……これでいい。
戦は、終わらせる。」
外の空に、朝日が昇る。
その色は血の赤ではなく、赦しを照らす白光だった。




