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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
27/82

第18話:祈りを砕く剣(後編) ②

早朝。

夜の気配がまだ消え切らぬ、群青の戦場。

冷たい風が草原を渡り、夜露の光が兵士の鎧を濡らしていた。

帝国の砦門から一人の青年が歩み出る。

リュークス・パドレ。

──解放の条件はただ一つ。


“自らの判断で、この戦を終わらせること”。


王国陣に戻ると、仲間たちが駆け寄った。


「リュークス!無事だったか!」

「リュークス殿、心配していましたよ!」


その声を聞きながらも、彼の顔には笑みがなかった。

ゆっくりと仲間を見渡し、低く告げる。


「……みんな、聞いてくれ。

俺は昨夜、“この戦の正体”を見た。」


その声音は静かで、しかし揺るぎない決意を帯びていた。



総大将・大司教の幕舎。

その周囲は王国兵の姿がなく、代わりに教会騎士が取り囲んでいた。

純白の布がはためき、香炉の煙が淡く立ちのぼる。

祈祷書と香の匂いが入り混じり、まるで礼拝堂のような静けさが落ちていた。


奥に、金糸の法衣を纏った大司教が座している。

その微笑は整いすぎていて、慈悲の象徴ではなく、仮面のようだった。


「心配していたのですよ、リュークス殿。ご無事で何よりです。」

微笑の仮面を付けたまま、そう囁く。


「──あの剣聖と渡り合うとは素晴らしい。どうかこの戦でも存分にお力を。」


「……そのことですが。」

リュークスは息を整えた。

「昨日、暗殺されかけました。」


一瞬で幕舎の空気が張り詰める。

大司教は表情を変えず、穏やかに問い返した。


「……それは穏やかではありませんね。帝国はそこまで堕ちましたか。

必ずや、報いを受けさせましょう。」


「いいえ。」

リュークスは懐から小瓶を取り出した。

透明な液体が光を反射する。


「刺客が使っていたのは──ノーレの毒でした。」


「……ノーレの毒?」

大司教の声は静かだった。

その瞬間、リュークスの胸に、かすかな希望がよぎった。


(……誤解であってくれ。俺の信じた“正義”が、そんなものであるはずがない──)


だが、次の瞬間。

大司教の眉がわずかに動いた。その表情を、リュークスは見逃さなかった。


「……聞いたこともありませんね。リュークス殿、あなたは帝国に唆されているのですよ。」


その言葉を遮るように、リュークスは燭台を手に取った。

瓶を掲げ、炎にかざす。

液体がじわりと、妖しい紫に変色する。

幕舎に、焦げた香が漂った。


「ノーレの毒は無味無臭。通常の手段では見抜けません。

……ですが、火にかければ必ず紫に変わる。」


紫に染まった液体を前に、

大司教の顔色が露骨に変わった。


「……中身をご存じなのですね。」

リュークスの声が静かに震える。

「知らぬはずの毒を見て、顔色を変える理由は、一つしかない。」



大司教はゆっくりと立ち上がった。

微笑の仮面を外したその目は、

信仰を捨てた修道者のように冷たく、乾いていた。

同時に、二人の教会騎士が幕舎の入口に立ち塞がる。


「……残念ですよ、リュークス殿。本当に残念です。」


「……大司教様。」


「あなた方はよく踊ってくれました。本当に。

ですが、知りすぎた者は──長くは生きられません。」


リュークスの拳が震えた。

「……俺を、殺すつもりですか。」


「殺す?ふふ、そんな生々しい言葉を。

あなたはまだ分かっていないようですね。」


大司教の目に、冷たい笑みが宿った。


「決闘の場で放たれた矢──あれも、我らの手の者です。

あなたが戦死すれば、帝国への憎悪は燃え上がり、王国は総力戦に突き進む。

その戦に赴くのは、あなたのような“次代の旗手”たちだ。

若く、誇り高く、理想に燃える“愚か者”ども。」


ゆっくりと、彼は言葉を重ねる。


「王国の次代を担う者たちが死ねば、国は衰える。

帝国との和平は崩れ、大陸は再び血に染まる。

そしてノーレは、“正義の仲裁者”として立つのです。

信仰と資源を独占し、両国の疲弊を糧に繁栄する。

──これほど美しい摂理が、他にありますか?」


リュークスの瞳が揺れた。

大司教の声は甘く、祈りのようで、しかし底知れぬ悪意を孕んでいた。


「……それが、お前たちの“神の意志”だと。」


「ええ。神は常に選ばれし者の側にあります。

あなた方の犠牲も、すべて神の糧となるのです。」


リュークスは静かに息を吐いた。

その瞳の奥に、もはや迷いはなかった。


「ちょうど良いではありませんか。」

大司教の唇が冷徹に歪む。

「ここにノーレの毒がある。

あなたは帝国に毒を盛られた。そう記せば済む話です。」


「ご安心なさい。帝国も、王国も、剣聖も、王女も……いずれは神の御許に還る。神こそが万物の支配者。

──あなたは一足先に、其処へ還るだけのこと。」


そう嘯く声音は、あくまで静かで、優しかった。

だが、その言葉を聞いた瞬間、リュークスの中で何かが音を立てて切れた。


王国の誇る若獅子が、決別の咆哮を上げる。

「──取り押さえろ!」



「……今だ!」

リュークスの叫びと同時に、幕舎の布が切り裂かれた。

幾人もの王国騎士が雪崩れ込む。

入口に立ち塞がった教会騎士も、すぐに打ち倒された。


驚愕する大司教。


「ば、バカな!外は教会騎士が警護していたはず──!」


王国騎士たちが冷笑を浮かべた。

「ノーレから来たばかりでご存じないようですがね、大司教閣下。

俺たちは帝国の侵攻を幾度も退けた“王国騎士”ですよ。

祈りながら剣を錆びさせる坊主どもとは違う。」

「そういうことです。ちょっと静かにしててもらうくらい、朝飯前なんですなぁ。」


リュークスの背後から、共に挙兵した若い貴族たちが続く。

その声は震えていたが、確かな勇気が宿っていた。


「全部、聞かせてもらった。

俺たちは──ノーレの操り人形じゃない!」


大司教の表情が歪む。

怒り、恐怖、そして狂信の光。


「貴様ら……リュークス!この裏切り者めが!」


リュークスは一歩踏み出し、まっすぐに指を突きつけた。


「謀ったのはお前だ!この戦は終わりだ!」

その声が、幕舎の外まで響く。


「俺たちはノーレと教会に騙されていた!

帝国と争う理由など、どこにもない!」


外で聞いていた王国兵たちがざわめく。

その波はやがて怒号へと変わった。

残った教会騎士たちは慌てて剣を抜くが、もはや抵抗は無意味だった。


白い幕舎の中に朝日が差し込む。

紫の毒瓶が光を反射し、床に落ちて砕け散った。


刺すような香りの中で、リュークスは静かに息を吐く。


「……これでいい。

戦は、終わらせる。」


外の空に、朝日が昇る。

その色は血の赤ではなく、赦しを照らす白光だった。

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