第17話:祈りを砕く剣(前編) ②
翌朝。
夜露がまだ草を濡らすころ、バルスレー砦の空は鉛のように重く曇っていた。
だが、朝陽が地平を撫でると、灰の雲の端に金の縁が差す。
戦の前にだけ訪れる、奇妙に清らかな静けさが流れていた。
砦門が開く。
黒曜の鎧を纏い、真紅の外套を靡かせた騎士が、愛馬とともに現れる。
黒曜の金属が朝焼けを反射し、まるで血のように煌めいた。
「──私が“黒曜の剣聖”、ヴィクトリア・ロムルスだ!」
澄んだ声が広野に鳴り響く。
抜き身の刃のように冷たく、しかし胸の奥に燃え上がる闘志を宿した声だった。
「我こそはという勇者はおらぬか!世界最強の剣に挑む者は!」
王国軍の陣がどよめく。
英雄の声を実際に耳にした者は、誰もがその若さに息を呑んだ。
若い──だが、その存在には、絶対的な威圧があった。
「どうした。王女殿下を取り戻すと息巻いたのは、どこの誰だ?
その覚悟を、“帝国の剣”に示してみせよ!」
沈黙を破り、一騎の影が進み出る。
白銀の甲冑。陽光を浴びて輝き、槍の穂先が高く掲げられた。
「名を聞こう。」
「パドレ侯爵家、リュークス・パドレ。エレツィアは王国に返してもらう!」
「……来い。」
二騎が地を蹴る。
両軍から地を揺るがすほどの歓声が上がる。
馬の嘶きがこだまし、刹那、槍と剣が火花を散らした。
⸻
砦の物見台。
戦場の中央で、二騎が火花を散らす。
その様を、クロイツァーは腕を組み、悠然と見下ろしていた。
金の飾りをあしらった漆黒の甲冑、真紅の外套には獅子の刺繍。
陽光を受けたその姿は、まさしく“帝国の獅子”であった。
「……剣聖の剣筋、相変わらず美しいな。」
「殿下、あの若武者もかなりのものですぞ。戦況は互角に見えますが……。」
「“互角”、か。」
クロイツァーが静かに笑う。
「ならば安心せよ。あれが“互角に見えている”時点で、黒曜は微塵も本気を出しておらん。」
将たちが息を呑む。
剣戟の音が激しさを増す中、クロイツァーの声だけが不思議な静けさを保っていた。
「見ろ、剣の呼吸が一拍も乱れていない。
あれは“技”ではない、“習慣”だ。
意識しているうちは、あれには勝てん。」
「……なるほど、これが剣聖。」
「そうだ。」
クロイツァーはわずかに息を吐き、遠くの空を見上げた。
「あの剣が味方である限り、帝国は滅びぬ。」
沈黙。
彼の視線が、戦場の彼方──蠢く黒い影を見据える。
「……だが、この戦は“表”では終わらぬ。
裏で糸を引く者がいる。そやつを斬るまでは、勝利とは言えん。」
隣の伝令が凍り付いたように頷いた。
クロイツァーは、ほんのわずかに口角を上げて呟く。
「黒曜、見極めさせてもらおう。お前の剣が、“誰の祈り”を砕くのか。」
⸻
砂塵を巻き上げ、二騎が激突した。
金属が悲鳴を上げ、風が唸り、刃が奔る。
槍が閃く。
ヴィクトリアはその先端をわずかに受け流し、返す刀で斬り返す。
空を裂く一撃が、リュークスの兜をかすめた。
「速いな……だが、まだ読める!」
「……そうか。」
剣と槍が再び交差し、轟音が広野に響く。
馬がすれ違いざまに体を翻し、再び突進。
互いの速度、技量、気迫──すべてが噛み合う。
(王国騎士らしい、良い剣筋だ。だが……遅い。)
剣戟の隙間に、ヴィクトリアが静かに問う。
「貴公、王女殿下を“エレツィア”と呼んでいたな。」
「……っ!それがどうした!」
「呼び捨てにできる者は少ない。貴公、王家の内情をよく知る立場か?」
「昔からそう呼んでいる。ただの幼馴染だ!」
「そうか。……なるほど、近すぎたからか。」
「なに……?」
「あの方は今や、“両国の要”だ。
──貴公の知る、少女ではない。」
「黙れぇっ!!」
怒声とともに白銀の槍が薙ぎ払われる。
ヴィクトリアは身を沈め、肩を掠めた刃をいなし、黒曜の剣を横薙ぎに払う。
その剣圧に、リュークスの馬が嘶いた。
「“両国の要”だと?人質にしておいて、よく言う……!」
「人質?」
「貴様らが王女を幽閉し、政争の道具にしたと、皆そう聞いてる!」
「……誰からだ?」
「ノーレから赴任した“大司教”だ!貴様らが王国を脅すために──!」
「──なるほど。」
ヴィクトリアの目が細められる。
声は変わらず静かだが、その奥には凍てつく殺気が宿っていた。
「ようやく、輪郭が見えた。」
「な……?」
その時。
空気を裂く、金属の唸り。
鋭い風が頬を掠め──
黒曜の刃が閃き、矢をはじき落とした。
「……っ!?」
「騎士の決闘中に弓矢とは……恥を知れ!」
怒声が響く。
「王国の勇者に当たっても構わぬというのか!──決闘は中断!
リュークス殿の身柄は、帝国が保護する!」
「なにを──ぐっ!」
槍が弾かれ、腕を取られる。
次の瞬間、黒曜の腕に抱えられていた。
「離せっ……俺はまだ!」
「……黙れ。死ぬ気で挑むな。
まだ、語ってもらうことがある。」
馬が跳ね、砦へと駆ける。
砦門が開かれ、黒い影が朝焼けへと消えていく。
背後では、王国陣の怒号と混乱が渦を巻いていた。
しかし、砦から矢が滝のように降り注ぎ、追撃は潰えた。
──やがて、矢の雨も止み、戦場には静寂が戻った。
風に舞う砂塵だけが、さきほどまでの狂騒を物語っている。
王国軍は一時的に退き、一方で帝国軍は追撃を控え、戦場の跡を慎重に見回った。
剣聖によって捕らえられた若き騎士──リュークス・パドレは、砦へと連行される。
日が傾くころ、砦には静かな時間が戻っていた。
医師の声、鎧の軋み、風に鳴る旗の音。
それらが、戦の終わりを告げているようだった。
夕暮れ。
砦の広場で、赤い空を背にヴィクトリアは静かに馬を下りた。
風が黒曜の鎧を鳴らした。
「ようやく──見つけた。」
砦の上からクロイツァーがその姿を見下ろし、口の端を上げる。
「釣れたな。」
──夜が、迫っていた。




