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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
23/82

第16話:私自身の誓い ②

すっと、白魚のような手が上がった。

議場に一瞬のざわめきが走る。貴族たちの視線が一斉に集まる。

皇太子が静かに問いかけた。


「──婚約者どの、何か意見が?」


エレツィアはゆっくりと立ち上がり、

張り詰めた空気を断つように、凛とした声を放った。


「この件に関して、エルスーア国王は関与しておりません。このような稚拙な宣戦布告を、認めるはずがない。

その証に、その文には玉印が打たれておりません。──和平の望みは、まだ絶たれてはいないと考えます。」


場内がざわめく。

皇太子派の貴族の一人が頷いた。


「確かに……玉印がない。

そして、敵軍に国王旗が掲げられていないのならば、王家が関与していない明確な証左ではないか?

まだ王国とは交渉の余地がある。」


しかし、中立派の貴族が首を振る。


「だが、臣下の暴走を止められぬ王家と、手を組む価値があるのかどうか。」


さらに、反対派のカピス子爵がぬるりと立ち上がった。

笑みを浮かべ、毒を含んだ声で言う。


「……とはいえ、それも“本当に王家が関与していなければ”の話。

王女殿下、この件について、何かご存じでは?」


「……どういう意味でしょうか。」


「この文章。粗雑ながら、王女殿下を想う情が見える。

果たして、そのような相手を易々と敵国に嫁がせるでしょうか?

国王旗など、掲げぬこともできましょう。

これが……“芝居”だとすれば?」


「つまり、“愚者を装い”、わたくしを取り戻そうとしていると?」


クロイツァーの声が低く唸る。

「カピス子爵、それは婚約者どのへの侮辱だ。」


「──おっと、これは失礼を。

ですが、宣戦布告の狙いが“王女殿下の奪還”にあることは明白。

何らかの対処はお決めになるべきでしょうな。」


議場の別の貴族が口を開く。

「“黒の離宮”へ一時移っていただいてはどうか。」

「それでは軟禁と変わらぬ!」

意見が錯綜し、議場はたちまち紛糾する。


宰相は沈黙を保っていた。

その姿は、あくまで静観。

“どちらに転んでも構わぬ”という意志の現れのように見えた。


その時──。

衛兵の声が高らかに響いた。


「皇帝陛下、ご入来!」


議場が一瞬で静まる。石床を叩く杖の音。

皇帝がゆっくりと歩み出る。

この半年で頬は痩せ、白髪は銀雪のようだが、

その瞳はいまだ流星の如く覇者の光を湛え、燃え尽きてはいなかった。


「……王国軍への対処は、議会の結論を採用する。」

声は掠れながらも、確かな力を帯びていた。

「第二騎士団をバルスレー砦へ急行させよ。

だが…クロイツァー、そなたも行け。

行って、その目で見極めるのだ。」

「……はっ。」


皇帝の視線が移る。黒髪の騎士を射抜いた。

「黒曜の剣聖。」

「はっ。」

「第一王女の近衛を一時解任する。クロイツァーに同行せよ。」

「……御意。」


「第一王女は白鷺の離宮へ移す。

第一騎士団を護衛にあてよ。

宰相、直ちに王国へ使者を送れ。王国の真意を確かめよ。」

「畏まりました。」


皇帝は最後に言葉を残す。

「和平の望みを、崩させてはならぬ。

皆、全力を尽くせ。」


その声が終わると同時に、議場の全員が膝をついた。

誰ひとり、言葉を発する者はいない。

ただ、遠くの窓の外で雷鳴が低く響いた。



白鷺の離宮。

帝都の外れに建つ、白い石造りの静寂の館。

かつて王族の別邸として使われたその場所は、

今は人も少なく、時折、風の音だけが通り抜けていく。


曇天が空を覆い、窓越しの庭園には光が届かない。

整えられた白薔薇の垣根さえ、どこか冷たく沈んで見えた。


エレツィアは窓辺に立ち、灰色の空を見上げる。

「……どうして、こんなことに。」


和平は崩させない。

その想いは皇帝も、皇太子も、私も同じはずだった。

なのに、王国の民も帝国の民も、また血を流す。


これが“戦”という現実。

以前口にした“必要な犠牲”の意味が、今さらながら胸に突き刺さる。

しかし、これは──“赦されぬ犠牲”だ。


(それに、ヴィクトリアも……殿下も、戦地へ向かう。)

ふたりの顔を思い浮かべるだけで、胸が軋んだ。

父や兄たちが出陣する時に感じた痛みと同じ。

けれど今はもっと深く、個人的な痛みだった。


(どうか……無事でお戻りを。)


祈ることしかできない。

それが、あまりにも悔しかった。


ノックの音が響く。

侍女だろうか。

「どうぞ」と告げると、静かに扉が開く。


現れたのは──黒髪の女騎士。

その身を包むのは見慣れた漆黒の騎士服ではなく、黒曜に輝く騎士の甲冑だった。


「ヴィクトリア……!」


「……エレツィア様。戦地へ赴く前に、一度お目通りをと。」


「……そう。顔を見せてくれて、嬉しいわ。」


言葉が詰まる。

伝えたいことは山ほどあるのに、どれも形にならない。


静寂。

ヴィクトリアが一歩、前へ進んだ。


「エレツィア様……不躾ながら、“お願い”がございます。」

「……お願い?」

思わず問い返す。彼女がそんな言葉を使うのを聞いたことがない。


「貴女の“希望”を、私に託してほしいのです。」


「私の、希望……を?」


赤い瞳が私をまっすぐに見据える。

その眼差しに、一切の迷いはなかった。


「かつて私にとって“希望”は、他者から背負わされる呪いでした。ですが、今は違います。

“希望”とは、明日を信じること。より良い未来を願うこと。

それを、貴女が教えてくださった。」


ヴィクトリアがゆっくりと剣を抜き、

その柄をこちらに向けて跪く。

黒曜の刀身が曇天の光を受けて光る。

曇り空の下でも煌めきを失わないその輝きは、地上に落ちた星のようだった。


「だからこそ、貴女の“希望”を背負いたい。

その希望を携え、帝国のため、王国のため、

そして何より──エレツィア様、貴女のためにこの剣を振います。」


「ヴィクトリア……それって……。」


「私は皇帝陛下に騎士として忠誠を誓いました。

その誓いに変わりはありません。

ですが、これは──“私自身の誓い”。

許される限り、他ならぬ貴女のためにこの命を使いたい。

……お許しをいただけますか。」


硬く、澄んだ声で尋ねてくる。

だが、その声音に一切の躊躇いはない。


「そんな……私はどうすれば……。

貴女の忠誠に、どう報いればいいのか分からないわ。

私は……無力なのに。」


思わず、瞳が戸惑いに揺れる。

私に、そのような価値などないのに。


あの夜の、炎と熱が脳裏に蘇った。

手のひらに、冷たい汗が滲む。


ヴィクトリアは静かに首を振る。

「いいえ。エレツィア様は、もう私に多くを与えてくださいました。十分すぎるほどに。

今度は、私の番です。どうか。」


その言葉に導かれるように、

エレツィアは震える手で剣の柄を握った。

ずしりと重い。

この剣を、彼女はいつも振るってきたのだ。

その重みが、胸に深く沈んでいく。


その剣を軽く掲げ、彼女の肩にそっと触れる。

「……許します。エレツィア・シャルル・エルスーアの名において、貴女の誓いを受け入れます。」


ヴィクトリアが私の手を取り、

その甲にそっと唇を落とした。

一瞬の沈黙。

それは戦の予感をも超える、永遠のような瞬間だった。


「──ありがとうございます、エレツィア様。

私の誓いを、受けてくださって。」


「いいえ。お礼を言うのは、私の方。

……どうか、必ず無事で戻ってきて。」


「エレツィア様の御心のままに。」


赤い外套が翻る。

去りゆく背中を見送りながら、

エレツィアは胸に手を当て、そっと祈った。


外では雷鳴が響く。

けれど、厚い雲の向こうで──

確かに、光が生まれはじめていた。

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