第16話:私自身の誓い ②
すっと、白魚のような手が上がった。
議場に一瞬のざわめきが走る。貴族たちの視線が一斉に集まる。
皇太子が静かに問いかけた。
「──婚約者どの、何か意見が?」
エレツィアはゆっくりと立ち上がり、
張り詰めた空気を断つように、凛とした声を放った。
「この件に関して、エルスーア国王は関与しておりません。このような稚拙な宣戦布告を、認めるはずがない。
その証に、その文には玉印が打たれておりません。──和平の望みは、まだ絶たれてはいないと考えます。」
場内がざわめく。
皇太子派の貴族の一人が頷いた。
「確かに……玉印がない。
そして、敵軍に国王旗が掲げられていないのならば、王家が関与していない明確な証左ではないか?
まだ王国とは交渉の余地がある。」
しかし、中立派の貴族が首を振る。
「だが、臣下の暴走を止められぬ王家と、手を組む価値があるのかどうか。」
さらに、反対派のカピス子爵がぬるりと立ち上がった。
笑みを浮かべ、毒を含んだ声で言う。
「……とはいえ、それも“本当に王家が関与していなければ”の話。
王女殿下、この件について、何かご存じでは?」
「……どういう意味でしょうか。」
「この文章。粗雑ながら、王女殿下を想う情が見える。
果たして、そのような相手を易々と敵国に嫁がせるでしょうか?
国王旗など、掲げぬこともできましょう。
これが……“芝居”だとすれば?」
「つまり、“愚者を装い”、わたくしを取り戻そうとしていると?」
クロイツァーの声が低く唸る。
「カピス子爵、それは婚約者どのへの侮辱だ。」
「──おっと、これは失礼を。
ですが、宣戦布告の狙いが“王女殿下の奪還”にあることは明白。
何らかの対処はお決めになるべきでしょうな。」
議場の別の貴族が口を開く。
「“黒の離宮”へ一時移っていただいてはどうか。」
「それでは軟禁と変わらぬ!」
意見が錯綜し、議場はたちまち紛糾する。
宰相は沈黙を保っていた。
その姿は、あくまで静観。
“どちらに転んでも構わぬ”という意志の現れのように見えた。
その時──。
衛兵の声が高らかに響いた。
「皇帝陛下、ご入来!」
議場が一瞬で静まる。石床を叩く杖の音。
皇帝がゆっくりと歩み出る。
この半年で頬は痩せ、白髪は銀雪のようだが、
その瞳はいまだ流星の如く覇者の光を湛え、燃え尽きてはいなかった。
「……王国軍への対処は、議会の結論を採用する。」
声は掠れながらも、確かな力を帯びていた。
「第二騎士団をバルスレー砦へ急行させよ。
だが…クロイツァー、そなたも行け。
行って、その目で見極めるのだ。」
「……はっ。」
皇帝の視線が移る。黒髪の騎士を射抜いた。
「黒曜の剣聖。」
「はっ。」
「第一王女の近衛を一時解任する。クロイツァーに同行せよ。」
「……御意。」
「第一王女は白鷺の離宮へ移す。
第一騎士団を護衛にあてよ。
宰相、直ちに王国へ使者を送れ。王国の真意を確かめよ。」
「畏まりました。」
皇帝は最後に言葉を残す。
「和平の望みを、崩させてはならぬ。
皆、全力を尽くせ。」
その声が終わると同時に、議場の全員が膝をついた。
誰ひとり、言葉を発する者はいない。
ただ、遠くの窓の外で雷鳴が低く響いた。
⸻
白鷺の離宮。
帝都の外れに建つ、白い石造りの静寂の館。
かつて王族の別邸として使われたその場所は、
今は人も少なく、時折、風の音だけが通り抜けていく。
曇天が空を覆い、窓越しの庭園には光が届かない。
整えられた白薔薇の垣根さえ、どこか冷たく沈んで見えた。
エレツィアは窓辺に立ち、灰色の空を見上げる。
「……どうして、こんなことに。」
和平は崩させない。
その想いは皇帝も、皇太子も、私も同じはずだった。
なのに、王国の民も帝国の民も、また血を流す。
これが“戦”という現実。
以前口にした“必要な犠牲”の意味が、今さらながら胸に突き刺さる。
しかし、これは──“赦されぬ犠牲”だ。
(それに、ヴィクトリアも……殿下も、戦地へ向かう。)
ふたりの顔を思い浮かべるだけで、胸が軋んだ。
父や兄たちが出陣する時に感じた痛みと同じ。
けれど今はもっと深く、個人的な痛みだった。
(どうか……無事でお戻りを。)
祈ることしかできない。
それが、あまりにも悔しかった。
ノックの音が響く。
侍女だろうか。
「どうぞ」と告げると、静かに扉が開く。
現れたのは──黒髪の女騎士。
その身を包むのは見慣れた漆黒の騎士服ではなく、黒曜に輝く騎士の甲冑だった。
「ヴィクトリア……!」
「……エレツィア様。戦地へ赴く前に、一度お目通りをと。」
「……そう。顔を見せてくれて、嬉しいわ。」
言葉が詰まる。
伝えたいことは山ほどあるのに、どれも形にならない。
静寂。
ヴィクトリアが一歩、前へ進んだ。
「エレツィア様……不躾ながら、“お願い”がございます。」
「……お願い?」
思わず問い返す。彼女がそんな言葉を使うのを聞いたことがない。
「貴女の“希望”を、私に託してほしいのです。」
「私の、希望……を?」
赤い瞳が私をまっすぐに見据える。
その眼差しに、一切の迷いはなかった。
「かつて私にとって“希望”は、他者から背負わされる呪いでした。ですが、今は違います。
“希望”とは、明日を信じること。より良い未来を願うこと。
それを、貴女が教えてくださった。」
ヴィクトリアがゆっくりと剣を抜き、
その柄をこちらに向けて跪く。
黒曜の刀身が曇天の光を受けて光る。
曇り空の下でも煌めきを失わないその輝きは、地上に落ちた星のようだった。
「だからこそ、貴女の“希望”を背負いたい。
その希望を携え、帝国のため、王国のため、
そして何より──エレツィア様、貴女のためにこの剣を振います。」
「ヴィクトリア……それって……。」
「私は皇帝陛下に騎士として忠誠を誓いました。
その誓いに変わりはありません。
ですが、これは──“私自身の誓い”。
許される限り、他ならぬ貴女のためにこの命を使いたい。
……お許しをいただけますか。」
硬く、澄んだ声で尋ねてくる。
だが、その声音に一切の躊躇いはない。
「そんな……私はどうすれば……。
貴女の忠誠に、どう報いればいいのか分からないわ。
私は……無力なのに。」
思わず、瞳が戸惑いに揺れる。
私に、そのような価値などないのに。
あの夜の、炎と熱が脳裏に蘇った。
手のひらに、冷たい汗が滲む。
ヴィクトリアは静かに首を振る。
「いいえ。エレツィア様は、もう私に多くを与えてくださいました。十分すぎるほどに。
今度は、私の番です。どうか。」
その言葉に導かれるように、
エレツィアは震える手で剣の柄を握った。
ずしりと重い。
この剣を、彼女はいつも振るってきたのだ。
その重みが、胸に深く沈んでいく。
その剣を軽く掲げ、彼女の肩にそっと触れる。
「……許します。エレツィア・シャルル・エルスーアの名において、貴女の誓いを受け入れます。」
ヴィクトリアが私の手を取り、
その甲にそっと唇を落とした。
一瞬の沈黙。
それは戦の予感をも超える、永遠のような瞬間だった。
「──ありがとうございます、エレツィア様。
私の誓いを、受けてくださって。」
「いいえ。お礼を言うのは、私の方。
……どうか、必ず無事で戻ってきて。」
「エレツィア様の御心のままに。」
赤い外套が翻る。
去りゆく背中を見送りながら、
エレツィアは胸に手を当て、そっと祈った。
外では雷鳴が響く。
けれど、厚い雲の向こうで──
確かに、光が生まれはじめていた。




