第15話:翼を持たぬ獅子
婚約発表から四ヶ月後のこと、皇太子クロイツァーが帝都へ戻った。
呼び出されたのは、エレツィアとヴィクトリア。
執務室には三人だけ。
封蝋の落ちた扉は重く、外の足音も吸い込む。
朝の光が斜めに差し、埃の粒が金色に揺れた。
机上には地図と幾つかの書簡、乾きかけたインクの匂い。
黒曜にも発言の機会を──そのための、私室会談だった。
報告を聞き終えたクロイツァーは、静かに息を吐いた。
「……そうか。なんと惨い。奴め、婚約者どのを貶めるために、そこまでやるか。」
椅子の背に身を預け、苦渋がその顔に滲む。
「黒曜からの文が届いたのが遅すぎた。
調べたところ、伝令が関所で一度“検め”に遭っている。
表向きは不手際、実際には宰相の手の者による一時押収だ。文書は写しを取られ、原本は遅らされた。
……そして、返答が間に合わぬ間に悲劇は起きた。俺の上を、奴は行った。」
自嘲がかすかに唇を歪める。
「言い訳だな。──婚約者どの、本当に、すまぬ。」
王族が頭を垂れるべき場ではない。だが彼は深く頭を下げた。
エレツィアは慌てて身を乗り出す。
「お顔をお上げください。“帝国の獅子”たるお方が、頭を下げるなど……」
「これは俺のけじめだ。夫となるべき男が、未来の妻ひとりの心すら護れずに何が為政か。
俺は──俺が許せん。」
「想いは、受け取りましたわ。
……わたくしたちの真の敵は、宰相です。」
「感謝する。奴め、婚約者どのひとりを折るために、どれほどの血を流すつもりだ。
必ず、報いを受けさせる。」
指先が乾いたインク壺の縁を二度、無意識に叩いた。爪が小さく鳴る。
「……だが、今や、奴はノーレの陰謀を暴き、王女の名誉を回復した“国士”扱いだ。
陛下はご不例、大権は議会に移り、過半は宰相派ときた。
証拠一枚で首は落とせぬ。まずは、地を削るところから始めるとしよう。」
その時、エレツィアの背後で、黒髪の騎士が一歩進み出た。
「その前に、一つ。お尋ねします、皇太子殿下。」
「……申せ。」
「無礼を承知でお伺いします。
──殿下と宰相の間に、通謀はありませんね。」
青い瞳がわずかに光を強めた。
「黒曜……俺を侮るな。」
獅子の気配が室内の空気を震わせる。
「花を手折るために街を焼く。
俺はそんな政治は、断じてせん。」
「言葉だけでは、信じられません。」
鋼の静寂と、獅子の怒気が正面からぶつかる。
赤と青の視線が、鍔迫り合いのように火花を散らした。
「──わたくしは、信じます。」
鈴のような声が割り込む。
二人の視線が同時に揺れた。
「婚約者どの?」「王女殿下?」
「信じますわ、皇太子殿下。きっと、わたくしたちは同じ方向を見られます。」
クロイツァーの目に、かすかな光が宿る。
「信頼には応えよう。
……だが、今は別の方向を向いている、と?」
「ええ。殿下は、夢を見ないでしょう?」
「夢、か……そうだな。為政者は、理想ばかりを追えぬ。」
その回答に、エレツィアの表情が僅かに翳る。
だが、すぐに瞳を上げた。
「わたくしは、理想を追いたいのです。」
「それは結構。
──婚約者どのは、理想に何を望む?」
「争いのない、世界を。」
青の瞳がわずかに揺れ、喉の奥から短い笑いが漏れた。
「……ふっ。──大きく出たものだ。確かに、それは為政者の夢だ。」
「小娘の夢物語と笑われても構いません。ですが、わたくしは本気です。」
笑いが止まり、皇太子の声が低くなる。
その目には、為政者としての光。
「婚約者どの。今のアルドレアは国家・宗教・貴族の思惑が絡み合う蠱毒の壺だ。
帝国だけを見てもこの有様。争いの火種は尽きぬ。
……理想を掲げる暇があるなら、民の命を一人でも救う策を講じるべきだ。」
重く響く声が空気を震わせる。
そこには、帝国の次代を背負う重みが宿っていた。
「ですが──」
エレツィアが口を開いたが、手で制された。
「婚約者どのの理想は否定せぬ。だが帝国を背負う者は、同じ夢を見られん。
獅子は、翼を持たぬものだ。」
沈黙が落ちる。
やがて彼は、淡々と続けた。
「それに、帝国皇后ともなれば権力は絶大だ。自らの手で追えばよい。
なぜ、俺を理想に組み込みたがる。」
「向かう方向が違えば、いずれ道は分かれます。
──その時、きっとわたくしは殿下の道の障害となりますわ。」
クロイツァーが、わずかに息を呑む。
「……知りました。想いだけでは何も為せぬこと。信念を貫くには力が要る。
殿下が仰った通り、皇后となればできることは増えるでしょう。
けれど、より大きな力──皇帝には敵いません。」
エレツィアの瞳が、まっすぐに皇太子を見据えた。
「だから殿下にも、同じ方向を向いてほしい。
これからの道を、共に歩んでほしい。
手を取り合えたなら、きっと“明日”へ近づける。」
「理想を掲げ、仲良く崖に落ちろと?非現実的だ。」
「理想に目を眩ませる必要はありませんわ。
それに、博愛を説いているわけでもありません。
ノーレ、宰相──共に天を戴けぬ者はいる。
血が流れることもあるでしょう。
それでも、民を盾にする者にはなりたくない。
理想も想いもなく、力だけでは“明日”へ進めません。」
再び、沈黙が室内に落ちる。
紙の端が風もないのに鳴った気がした。
クロイツァーは視線を落とし、ゆっくりと噛みしめるように息を吐く。
「お願いします、殿下。スラムの民の死に怒った殿下なら──きっと。」
そこへ、再びヴィクトリアが進み出た。
「皇太子殿下。僭越ながら、私からもよろしいでしょうか。」
「……黒曜?」
「皇太子殿下は先ほど、『皇后となれば』と仰いましたが、
王女殿下は“今”傷つけられています。
──私だけでは、彼女を護れない。」
その一言に、クロイツァーの表情が微かに崩れた。
かつての為政者としての過ち──その光景が脳裏によぎる。
「……」
「今日と明日は地続きです。
より良い明日へは、今から歩き出すしかない。
だから、“今”、殿下のお力が必要です。」
静かな間。
遠くの時を告げる鐘が、厚い壁に吸われる。
「……わかった。もういい。」
クロイツァーは目を閉じ、椅子の背に身を預ける。
ひとつ大きく呼吸を整え、ゆっくりと身を起こした。
「……俺は“帝国の獅子”。獅子は翼を持たぬ。」
「殿下……。」
「──だが。」
青い瞳が開く。
そこには、確かな決意の光があった。
「そういえば、『獅子は翼を持たぬ』とは教わったが、
『持ってはならぬ』とは、誰にも習わなんだな。」
獅子の口角が上がる。
「俺を利用しようとした者は星の数ほどいたが──今のが一番いい口説き文句だ。
良かろう。俺も、貴様らと同じ明日を目指そう。」
「……!
嬉しゅうございます、殿下。」
「うむ。──ただし、貴様らにも働いてもらう。客人扱いは終いだ。使い倒すぞ。」
「望むところですわ──ねえ、ヴィクトリア。」
「王女殿下の御心のままに。」
クロイツァーは短く頷き、即座に段取りへ移る。
「時間をかけた甲斐あって、地方の反発は鎮まった。
残るは帝都だ。まず、奴の目と耳を断つ。
俺は伝令線を洗い直す。黒曜は密偵網を潰せ。
婚約者どのは公務と茶会で民意を掬い、内から締めろ。三方から絞る。」
「かしこまりましたわ。」
「御意。」
方針は定まった。あとは進むだけ。
翼を得た獅子が地を踏み、影が走り、花が風を掴む。
──風向きは、もう変わり始めていた。




