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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
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第15話:翼を持たぬ獅子

婚約発表から四ヶ月後のこと、皇太子クロイツァーが帝都へ戻った。

呼び出されたのは、エレツィアとヴィクトリア。


執務室には三人だけ。

封蝋の落ちた扉は重く、外の足音も吸い込む。

朝の光が斜めに差し、埃の粒が金色に揺れた。

机上には地図と幾つかの書簡、乾きかけたインクの匂い。


黒曜にも発言の機会を──そのための、私室会談だった。


報告を聞き終えたクロイツァーは、静かに息を吐いた。


「……そうか。なんと惨い。奴め、婚約者どのを貶めるために、そこまでやるか。」


椅子の背に身を預け、苦渋がその顔に滲む。


「黒曜からの文が届いたのが遅すぎた。

調べたところ、伝令が関所で一度“検め”に遭っている。

表向きは不手際、実際には宰相の手の者による一時押収だ。文書は写しを取られ、原本は遅らされた。

……そして、返答が間に合わぬ間に悲劇は起きた。俺の上を、奴は行った。」


自嘲がかすかに唇を歪める。

「言い訳だな。──婚約者どの、本当に、すまぬ。」


王族が頭を垂れるべき場ではない。だが彼は深く頭を下げた。

エレツィアは慌てて身を乗り出す。


「お顔をお上げください。“帝国の獅子”たるお方が、頭を下げるなど……」


「これは俺のけじめだ。夫となるべき男が、未来の妻ひとりの心すら護れずに何が為政か。

俺は──俺が許せん。」


「想いは、受け取りましたわ。

……わたくしたちの真の敵は、宰相です。」


「感謝する。奴め、婚約者どのひとりを折るために、どれほどの血を流すつもりだ。

必ず、報いを受けさせる。」


指先が乾いたインク壺の縁を二度、無意識に叩いた。爪が小さく鳴る。


「……だが、今や、奴はノーレの陰謀を暴き、王女の名誉を回復した“国士”扱いだ。

陛下はご不例、大権は議会に移り、過半は宰相派ときた。

証拠一枚で首は落とせぬ。まずは、地を削るところから始めるとしよう。」


その時、エレツィアの背後で、黒髪の騎士が一歩進み出た。


「その前に、一つ。お尋ねします、皇太子殿下。」


「……申せ。」


「無礼を承知でお伺いします。

──殿下と宰相の間に、通謀はありませんね。」


青い瞳がわずかに光を強めた。

「黒曜……俺を侮るな。」

獅子の気配が室内の空気を震わせる。

「花を手折るために街を焼く。

俺はそんな政治は、断じてせん。」


「言葉だけでは、信じられません。」


鋼の静寂と、獅子の怒気が正面からぶつかる。

赤と青の視線が、鍔迫り合いのように火花を散らした。


「──わたくしは、信じます。」


鈴のような声が割り込む。

二人の視線が同時に揺れた。


「婚約者どの?」「王女殿下?」


「信じますわ、皇太子殿下。きっと、わたくしたちは同じ方向を見られます。」


クロイツァーの目に、かすかな光が宿る。


「信頼には応えよう。

……だが、今は別の方向を向いている、と?」


「ええ。殿下は、夢を見ないでしょう?」


「夢、か……そうだな。為政者は、理想ばかりを追えぬ。」


その回答に、エレツィアの表情が僅かに翳る。

だが、すぐに瞳を上げた。


「わたくしは、理想を追いたいのです。」


「それは結構。

──婚約者どのは、理想に何を望む?」


「争いのない、世界を。」


青の瞳がわずかに揺れ、喉の奥から短い笑いが漏れた。


「……ふっ。──大きく出たものだ。確かに、それは為政者の夢だ。」


「小娘の夢物語と笑われても構いません。ですが、わたくしは本気です。」


笑いが止まり、皇太子の声が低くなる。

その目には、為政者としての光。


「婚約者どの。今のアルドレアは国家・宗教・貴族の思惑が絡み合う蠱毒の壺だ。

帝国だけを見てもこの有様。争いの火種は尽きぬ。

……理想を掲げる暇があるなら、民の命を一人でも救う策を講じるべきだ。」


重く響く声が空気を震わせる。

そこには、帝国の次代を背負う重みが宿っていた。


「ですが──」


エレツィアが口を開いたが、手で制された。


「婚約者どのの理想は否定せぬ。だが帝国を背負う者は、同じ夢を見られん。

獅子は、翼を持たぬものだ。」


沈黙が落ちる。

やがて彼は、淡々と続けた。


「それに、帝国皇后ともなれば権力は絶大だ。自らの手で追えばよい。

なぜ、俺を理想に組み込みたがる。」


「向かう方向が違えば、いずれ道は分かれます。

──その時、きっとわたくしは殿下の道の障害となりますわ。」


クロイツァーが、わずかに息を呑む。


「……知りました。想いだけでは何も為せぬこと。信念を貫くには力が要る。

殿下が仰った通り、皇后となればできることは増えるでしょう。

けれど、より大きな力──皇帝には敵いません。」


エレツィアの瞳が、まっすぐに皇太子を見据えた。


「だから殿下にも、同じ方向を向いてほしい。

これからの道を、共に歩んでほしい。

手を取り合えたなら、きっと“明日”へ近づける。」


「理想を掲げ、仲良く崖に落ちろと?非現実的だ。」


「理想に目を眩ませる必要はありませんわ。

それに、博愛を説いているわけでもありません。

ノーレ、宰相──共に天を戴けぬ者はいる。

血が流れることもあるでしょう。

それでも、民を盾にする者にはなりたくない。

理想も想いもなく、力だけでは“明日”へ進めません。」


再び、沈黙が室内に落ちる。

紙の端が風もないのに鳴った気がした。

クロイツァーは視線を落とし、ゆっくりと噛みしめるように息を吐く。


「お願いします、殿下。スラムの民の死に怒った殿下なら──きっと。」


そこへ、再びヴィクトリアが進み出た。


「皇太子殿下。僭越ながら、私からもよろしいでしょうか。」


「……黒曜?」


「皇太子殿下は先ほど、『皇后となれば』と仰いましたが、

王女殿下は“今”傷つけられています。

──私だけでは、彼女を護れない。」


その一言に、クロイツァーの表情が微かに崩れた。

かつての為政者としての過ち──その光景が脳裏によぎる。


「……」


「今日と明日は地続きです。

より良い明日へは、今から歩き出すしかない。

だから、“今”、殿下のお力が必要です。」


静かな間。

遠くの時を告げる鐘が、厚い壁に吸われる。


「……わかった。もういい。」


クロイツァーは目を閉じ、椅子の背に身を預ける。

ひとつ大きく呼吸を整え、ゆっくりと身を起こした。


「……俺は“帝国の獅子”。獅子は翼を持たぬ。」


「殿下……。」



「──だが。」



青い瞳が開く。

そこには、確かな決意の光があった。


「そういえば、『獅子は翼を持たぬ』とは教わったが、

『持ってはならぬ』とは、誰にも習わなんだな。」


獅子の口角が上がる。


「俺を利用しようとした者は星の数ほどいたが──今のが一番いい口説き文句だ。

良かろう。俺も、貴様らと同じ明日を目指そう。」


「……!

嬉しゅうございます、殿下。」


「うむ。──ただし、貴様らにも働いてもらう。客人扱いは終いだ。使い倒すぞ。」

「望むところですわ──ねえ、ヴィクトリア。」

「王女殿下の御心のままに。」


クロイツァーは短く頷き、即座に段取りへ移る。


「時間をかけた甲斐あって、地方の反発は鎮まった。

残るは帝都だ。まず、奴の目と耳を断つ。

俺は伝令線を洗い直す。黒曜は密偵網を潰せ。

婚約者どのは公務と茶会で民意を掬い、内から締めろ。三方から絞る。」


「かしこまりましたわ。」

「御意。」


方針は定まった。あとは進むだけ。


翼を得た獅子が地を踏み、影が走り、花が風を掴む。

──風向きは、もう変わり始めていた。

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