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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第一章
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第2話:曇天の向こうに

その日は曇りだった。

光も影も曖昧で、空の輪郭を塗り潰している。

窓を薄く曇らせる湿った風が、指先を撫でて去る。

薄灰の雲は空を覆いつくし、ただ低く、静かに垂れ込めていた。


「姫様の大事な輿入れの日でございますのに……この空模様では。」


憤慨とも嘆きともつかない侍女の声に、私はかすかに笑った。


「わたくしは、曇りの日も好きよ。空からの光が柔らかいもの。」

そう言ってみせると、侍女は困ったように息をつく。


「……姫様。」


「本心よ。……それに、一生に一度のことなのだから、楽しまないと。」


口に乗せた言葉は、思ったより軽かった。

胸の奥が、わずかに痛む。

曇り空の下では、微笑みでさえ少し霞んで見える。


そう、今日は私──

エレツィア・シャルル・エルスーアが、

王国第一王女として、隣国オルヴァンス帝国へ嫁ぐ日である。



私の祖国、エルスーア王国と帝国は、長く剣を交えてきた。

やがて、互いに疲弊した王国と帝国は、和平と、政略婚を選んだ。

帝国皇太子、クロイツァー・オルヴァンス、齢二十四。私、十五。

数字だけ見れば、珍しくもない。

……けれど、その重みは誰よりも私が知っている。


幼い頃から、私は幾度となく戦を見送ってきた。

春には花が咲き、笑顔で旅立つ兵を見送り、

秋には葉が散り、帰らぬ者たちに涙する。


城門の前で、私はいつも祈った。

王女として、神に。

ひとりの人として、彼らの家族に。

……けれど、祈りは届かず、悲しみばかりが増えていった。


そのたびに胸の奥が痛んだ。

誰かがこの連鎖を止めなければならない。

その時、こう思った。

ならば、私がその“誰か”になればいい。


──だから、和平の重みを知っている。

それがどれほどの犠牲の上にあるものかも。


父は何度も、私に謝った。


「お前にばかり苦労をかける。すまない、エレツィア。

私は帝国に行くお前に何もしてやれない。」


そのたびに私は微笑み、言い返した。


「お父様、わたくしは犠牲になるわけではありませんわ。

……大陸二大強国の和平が叶えば、きっとアルドレアに、戦のない季節が来ます。」


父の目が滲む。

王としてではなく、ひとりの父としての目。

私はその目を、まっすぐに見返した。王女ではなく、娘として。


和平と政略結婚が告げられたあの瞬間から、

私は“誰かのために笑う”と決めた。


──けれど、本当に誰かのために笑えているのかは、まだわからなかった。



侍女たちを下がらせ、私は窓辺に立つ。

雲は低く、薄陽がにじむ。

指先でガラスをなぞると、爪の先に湿りが移った。


「……一度くらいは、お目通りしたかったわね。」


決意はあっても、顔も知らぬ相手に嫁ぐことは、不安そのものだ。

帝国は実力の国。貴族でも、平民でも、功績のない者に椅子は用意されない。

信仰の文化も希薄で、“聖女”と呼ばれてきた私の肩書きは、彼らの前では羽根より軽い。

それでも、やるしかない。

平和の象徴として、彼らの前で“花”として咲かねばならない。


窓に映る自分に微笑む。


風が吹いたとしても、花は、容易く散ってはならない。

──風に折れるのを恐れぬ花だけが、大地に根を張れることを知っている。



ノックの音が部屋に響く。


「失礼致します。出立の準備が整いました。」


「そう。ご苦労様。すぐに行くわ。」


私は頷き、部屋を見渡した。

幼い頃に繰り返し読んだ絵本、磨り減った祈りの小冊子、

母から贈られたお気に入りのリボン。

視線でひとつずつ撫で、心の中で別れを告げる。

扉へ手を伸ばす前、胸の内で短く祈った。


(どうか、今日の微笑みが嘘になりませんように。)



城門前は、人の気配と風の匂いで満ちていた。

並んだ家族と侍女たち。

兵たちの鎧の線が、曇天の下で鈍く光る。

風に乗って草の匂いがした。雨の前触れのような、懐かしい匂い。

それだけで、涙が込み上げる。


「エレツィア……達者でな。」

父の声は、戦場で何度も、多くの命を掬い上げてきた人の声だ。

母は、言葉もなく泣いている。

気高く美しい王妃が、今だけは、私のお母様だった。

「エレ、兄様たちはいつでもお前の味方だからね。」

兄は笑おうとして、上手く笑えずにいる。

「姫様、どうかお身体に気をつけて。」

侍女たちの目は赤い。涙は、私も同じ。


「はい……皆様。エレはこの国の王女で、幸せでした。

どうか、いつまでもお元気で。」


涙を拭い、振り返らぬように背を向ける。

視線の先、帝国の騎士たちが整列していた。


整った軍装、統率の取れた気配。

一人一人が鋼で組まれたような姿勢で立ち並び、

その列の上には濁りのない緊張が薄く漂う。

規律の匂いが、空気の温度をひんやりと変えていた。


その列から、ひとりの女騎士が一歩、前へ出る。

華奢だが、他の騎士より僅かに背が高い。

漆黒の騎士服が空の光を吸い、その動作の一つ一つに、揺らぎがない。


「貴女が、隊長かしら?」


私の声が届く前に、風が止んだ気がした。

女騎士は音もなく片膝をつき、静かな、完璧な礼を取った。

その一連に、誇示も虚勢もない。

研ぎ澄まされた鋼の静寂だけが、場の中心となった。


「お初にお目にかかります、第一王女殿下。

帝国第一騎士団所属、ヴィクトリア・ロムルスと申します。

これより帝都までの五日間、警護を担当いたします。」


澄んだ声。

しかし底に、硬い響きが残っている。

長く刃を鞘に収めて生きてきた者の声だ、と直感した。


その名を聞いた瞬間、心臓が跳ねる。

“ヴィクトリア・ロムルス”。

帝国が誇る、最強の騎士。黒曜の剣聖。

数年前の他国との戦で、文字通り“一騎討千”の戦功を挙げた英雄。


──だが、目の前にいる彼女は、私が想像していた“畏怖の象徴”ではなかった。

私よりも僅かに歳上に見えるが、それでも若い。

短く切り整えられた黒髪が、光を反射し淡く艶めく。

赤い瞳には、炎ではなく、夜の灯火のような静けさが宿っていた。

見つめられると、目を逸らしたくなる。

美しいものを直視するときの、あの痛み。


「……殿下?」

「あ──失礼しましたわ。」


気付けば、私は見入っていた。

疑問の声音が混じる声に、はっとする。


「あの、かの名高い剣聖に護っていただけるなんて思わなくて。ずいぶん、お若いのね。」

「……仰る通り、私は若輩者でございます。」

「いえ、そういう意味ではなくて。わたくしと同年代かしらと思って、嬉しくて。」


「……はい。」


ほんの僅か、硬さが崩れた。

律されているのに、どこか拙い。

強さの中に、純粋さが滲むひと。

──そう感じた。


“黒曜の剣聖”が、私を護る。

それは政治的意図を含んだ任命だろう。

けれど私は、別の意味を感じてしまっていた。


この人は、剣で護るだけではない。

きっと、心でも護る人だ。



短く祈りを捧げ、馬車へ向かった。

曇天の向こうに、うっすらと光が差し始めている。

車輪が石畳を噛み、低く転がる音が、胸の鼓動と重なる。


馬車に乗り込む前、ふと足が止まる。


視界の隅、帝国騎士の列の端に、少年が立っていた。

騎士の従僕だろうか。まだ兵の列に混じれない年頃。


私が視線を向けると、少年は慌てて膝をつき、ぎこちない礼をした。

その肩に、隣の騎士がそっと手を置く。

叱責ではなく、支えの手。


それを見て、私は息を吸う。

帝国は冷たい鉄でできていると思っていた。

けれど、鉄は人の手で鍛えられている。

ならば、熱もあるはずだ。


「殿下。」


背後で、あの澄んだ声。

振り向くと、ヴィクトリアがいた。

近くで見ると、漆黒の襟元に糸のほつれが小さく残っている。


──彼女もまた、人間なのだ。

目がそこに吸い寄せられて、我に返る。


「……参りましょう。」

「ええ。」


私たちの視線が一瞬だけ交わる。

その瞬間、曇天が近くなる。

雲は割れない。けれど、光は消えない。

そんな空に、少しだけ救われる──。

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