第14話:夜と夢を分け合って
──また、夢を見た。
月の光が、頬を撫でていく。
あの夜の、子どもたちの笑顔。
焚き火のように揺れ、儚く、温かく咲いていた。
だが、風が吹いた。
火は、炎へと変わり、世界を呑みこんだ。
私はそれを、ただ見ていることしかできなかった。
崩れ落ちた教会の扉を押し開ける。
焦げた空気が肺に刺さる。
その先に──
物言わぬ、五つの死。
「──ッ!」
寝台の上で、息がはぜた。
汗が純白のシーツを濡らし、胸が痛むほど上下する。
月光が静かに降りている。
夜はまだ、終わりを拒んでいた。
⸻
あの日、帝国議会は正式に発表した。
“王女の呪い”はノーレの陰謀によるもの。
王女エレツィア・シャルル・エルスーアの名誉は回復された──と。
けれど、求めていたものは、そんなものではなかった。
両の手をすり抜けたものは、もう戻らない。
あの夜、炎とともに消えた笑い声も、あたたかな手の感触も。
ヴィクトリアは、何も語らなかった。
ただ、沈黙の中でこちらを見つめていた。
その瞳に何が映っていたのかは──わからない。
それからというもの、私たちの言葉は最小限になった。
朝の挨拶と、夜の別れ。
それだけが、細い糸のように二人を繋いでいた。
月が満ち、そして欠け──日々が無為に過ぎていく。
宰相は、心配そうな笑みを浮かべてみせる。
だがその奥には、薄い嘲りがある。
彼は知っているのだ。
私の心が、音もなく壊れたことを。
いま思えば、平和を信じていた自分は愚かだった。
世界を知らぬ少女の夢物語。
現実も、悪意も、こんなにも冷たく、こんなにも残酷だなんて。
人が、こわい。
……宰相の言う“お飾り”でも構わないのかもしれない。
皇太子の妻となり、望まれるままに子を産み、
ただ象徴として在る。
誰かが整えた道を歩き、何も恐れず、何も考えずに生きる。
それはきっと、楽で、優しい生き方だ。
そう思えてしまうほどに、私は絶望していた。
──笑うことなど、出来ないほどに。
⸻
薔薇の庭園。
抜けるような蒼天の下、満開の薔薇が陽光に輝き、咲き誇っている。
風が花の香を攫い、淡い光の粒を散らしていた。
遠くの噴水の音が、静けさの底を撫でていく。
「──わたくし、壊れたのかしら。」
ひとひらの花弁が、風に遊ばれ、ゆっくりと足元へ落ちる。
それが土に触れる音が、やけに鮮明に響いた気がした。
人払いをしている。返す声はない。
ただ、沈黙の近衛が、背に影のように控えている。
「ねえ、ヴィクトリア。わたくし、おかしくなったわ。何も感じないの。もう、何も。」
振り返ると、彼女の瞳がまっすぐこちらを見つめていた。
紅玉のような光。冷たいのに、どこか痛いほど澄んでいる。
その視線に、私は息を詰めた。
「ふふ。貴女に話しても、仕方ないわね。」
耐えられず、目を逸らす。
あの赤を、見つめるのが辛い。
「……殿下は、心優しいお方です。」
声が、風に紛れて届く。
挨拶以外の言葉を聞くのは、いつ以来だったろう。
「どうして、そう思うの?」
「今も苦しんでいるからです。
救えなかった命を想って。」
その言葉に、首を傾げる。
「苦しむ?わたくしが?
……もう悲しみも、痛みもないのよ。
あの子たちを思い出しても、何も感じないの。」
「それが、苦しみです。」
ヴィクトリアの声は祈りのように静かだった。
「殿下は初めて、“目の前で何かを失う”苦しみを知った。
だから、まだ言葉を見つけられないのです。」
鋼のように澄んだ声。
「──できれば、知らずにいてほしかった。」
けれど、声音の底に、深い悔恨の色が滲んでいた。
「……貴女には、わかるの? その、苦しみが。」
感情が昂り、思わず声が震えた。
返ってきたのは、答えではなく、問いだった。
「殿下は、夢を見ますか。」
「……ええ。」
笑う顔。そして、燃える影。
夢の中ですら、誰も護れなかった。
「私も、夢を見るのです。戦場の夢を。
思い出すのです。
血と鉄の匂い、焦げた風。
そして──」
「“剣聖がいれば勝てる”と笑い、信じて死んでいった戦友たちの顔を。」
「……っ。」
その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。
彼女はわずかに笑っていた。
それは、痛みを飲み込む笑みだった。
「彼らは死の瞬間まで笑っていました。
絶望的な状況でも、希望に満ちて、その先の勝利を疑いもしなかった。
──その“希望”を背負わされた私のことは、きっと考えもしなかったでしょう。」
言葉が出ない。胸の奥で、何かが強く軋む。
彼女の心の奥底にある痛みに、触れた気がした。
「明日を夢見て、叶わずに死んだ。
誰も、護れなかった。
それでも、生き残った私は、生きるしかないのです。
彼らが生きられなかった明日を。」
「……ああ、ヴィクトリア。」
瞳の奥が滲んだ。
「貴女も、同じ夢を見るのね。
ずっと、こんな苦しみを抱えたまま、
それでも私を護ってくれていたのね。」
堰が外れ、涙が頬を伝う。
こんなに近くにいてくれたのに、
私は、何も分かっていなかった。
「……ほら、殿下は──こんなにも優しい。」
彼女が、ゆっくりと微笑む。
「あたしなんかのために、涙をくださる。」
彼女だって、こんなにも優しいのに。
⸻
風が止んだ。
薔薇の香が静かに薄れていく。
彼女の瞳は純粋で、夕暮れの太陽のような、優しい赤に染まっていた。
胸の奥が熱を帯び、鼓動が乱れる。
鼓動が、自分のものではないように響いた。
気づけば、私はゆっくりと、一歩ずつ、
彼女に歩み寄っていた。
赤い瞳が、わずかに揺れる。
次の瞬間、私は彼女の胸に飛び込んだ。
彼女の手を取ったあの夜のように、彼女の肩が強張り、喉の奥で息を呑む音がした。
「で、殿下──?」
戸惑う声。
構わず、その背に手を回し、そっと囁く。
「エレツィア、よ。」
「えっ?」
「ねえ、ヴィクトリア。前に言ったでしょう?
『エレツィアと呼んで』って。
なのに貴女は『不敬にあたります』って。
……でも、いま、呼んでほしいの。」
「それは──」
「不敬じゃないわ。私が許します。帝国の次期皇后が。
貴女にだけは、許可します。……よろしくて?」
「で、ですが……。」
「エレツィアよ。」
「……ねえ、ヴィクトリア。
私にとって貴女は、夢の中でも、夜を分かち合える唯一のひと。
そんなひとに、特別に呼ばれたいと思うのは……ワガママかしら?」
そう言って、視線を上げる。
彼女の赤い瞳が、すぐ近くで揺れていた。
「……うっ……。」
「お願い、ヴィクトリア。」
短い沈黙。
彼女は小さく息を吸い、かすかな声で言った。
「……エレツィア、様。」
「もう一度。」
「エレツィア様。」
今度は、はっきりと、確かな声で。
その声音は、どこまでも優しかった。
命を慈しむ、澄んだ響き。
「ええ。」
私は微笑む。
「ねえ、ヴィクトリア──抱きしめて?」
ぎこちない腕が、それでも優しく私の背に回る。
緊張に強張っていた彼女の身体が、ひと呼吸ごとに力を抜いていく。
騎士服の硬い布地の向こうに、確かな体温。
その温度が伝わって、胸の内側に、ゆっくりとあたたかさが満ちていく。
目を閉じる。胸に頭を預ける。
耳元で、彼女の鼓動が規則正しく鳴っている。
“生きている”という音が、こんなに優しいなんて知らなかった。
新しい涙が頬を伝う。それはさっき流した涙より、ずっと温かかった。
薔薇の庭園で、ふたりの影が重なる。
刺のある茎が風に鳴り、花弁は静かに揺れる。
あの日から心を蝕んでいた“絶望”は、
その風に溶けるように、消えていった。
⸻
遠く、鐘が鳴る。
昼と夕のあいだを区切る、穏やかな音。
私は顔を上げ、彼女の名を確かめるように呼んだ。
「……ヴィクトリア、ありがとう。
貴女のお陰で、私はまた、前を向ける。
あの子たちの分まで、明日を生きるわ。」
「はい、エレツィア様。
私は、いつでもお側におります。」
世界が、ほんの少しだけ、明るくなった気がした。
風が、薔薇の香を運んでいく。
夜と夢の境に、かすかな朝が滲み始めていた。




