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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
19/82

第14話:夜と夢を分け合って

──また、夢を見た。


月の光が、頬を撫でていく。

あの夜の、子どもたちの笑顔。

焚き火のように揺れ、儚く、温かく咲いていた。


だが、風が吹いた。

火は、炎へと変わり、世界を呑みこんだ。


私はそれを、ただ見ていることしかできなかった。

崩れ落ちた教会の扉を押し開ける。

焦げた空気が肺に刺さる。


その先に──

物言わぬ、五つの死。



「──ッ!」



寝台の上で、息がはぜた。

汗が純白のシーツを濡らし、胸が痛むほど上下する。

月光が静かに降りている。 

夜はまだ、終わりを拒んでいた。



あの日、帝国議会は正式に発表した。

“王女の呪い”はノーレの陰謀によるもの。

王女エレツィア・シャルル・エルスーアの名誉は回復された──と。


けれど、求めていたものは、そんなものではなかった。


両の手をすり抜けたものは、もう戻らない。

あの夜、炎とともに消えた笑い声も、あたたかな手の感触も。


ヴィクトリアは、何も語らなかった。

ただ、沈黙の中でこちらを見つめていた。

その瞳に何が映っていたのかは──わからない。


それからというもの、私たちの言葉は最小限になった。

朝の挨拶と、夜の別れ。

それだけが、細い糸のように二人を繋いでいた。

月が満ち、そして欠け──日々が無為に過ぎていく。


宰相は、心配そうな笑みを浮かべてみせる。

だがその奥には、薄い嘲りがある。

彼は知っているのだ。

私の心が、音もなく壊れたことを。


いま思えば、平和を信じていた自分は愚かだった。

世界を知らぬ少女の夢物語。

現実も、悪意も、こんなにも冷たく、こんなにも残酷だなんて。


人が、こわい。


……宰相の言う“お飾り”でも構わないのかもしれない。

皇太子の妻となり、望まれるままに子を産み、

ただ象徴として在る。

誰かが整えた道を歩き、何も恐れず、何も考えずに生きる。


それはきっと、楽で、優しい生き方だ。


そう思えてしまうほどに、私は絶望していた。

──笑うことなど、出来ないほどに。



薔薇の庭園。

抜けるような蒼天の下、満開の薔薇が陽光に輝き、咲き誇っている。

風が花の香を攫い、淡い光の粒を散らしていた。

遠くの噴水の音が、静けさの底を撫でていく。


「──わたくし、壊れたのかしら。」


ひとひらの花弁が、風に遊ばれ、ゆっくりと足元へ落ちる。

それが土に触れる音が、やけに鮮明に響いた気がした。


人払いをしている。返す声はない。

ただ、沈黙の近衛が、背に影のように控えている。


「ねえ、ヴィクトリア。わたくし、おかしくなったわ。何も感じないの。もう、何も。」


振り返ると、彼女の瞳がまっすぐこちらを見つめていた。

紅玉のような光。冷たいのに、どこか痛いほど澄んでいる。

その視線に、私は息を詰めた。


「ふふ。貴女に話しても、仕方ないわね。」


耐えられず、目を逸らす。

あの赤を、見つめるのが辛い。


「……殿下は、心優しいお方です。」


声が、風に紛れて届く。

挨拶以外の言葉を聞くのは、いつ以来だったろう。


「どうして、そう思うの?」


「今も苦しんでいるからです。

救えなかった命を想って。」


その言葉に、首を傾げる。


「苦しむ?わたくしが?

……もう悲しみも、痛みもないのよ。

あの子たちを思い出しても、何も感じないの。」


「それが、苦しみです。」

ヴィクトリアの声は祈りのように静かだった。


「殿下は初めて、“目の前で何かを失う”苦しみを知った。

だから、まだ言葉を見つけられないのです。」


鋼のように澄んだ声。


「──できれば、知らずにいてほしかった。」


けれど、声音の底に、深い悔恨の色が滲んでいた。


「……貴女には、わかるの? その、苦しみが。」


感情が昂り、思わず声が震えた。

返ってきたのは、答えではなく、問いだった。


「殿下は、夢を見ますか。」


「……ええ。」


笑う顔。そして、燃える影。

夢の中ですら、誰も護れなかった。


「私も、夢を見るのです。戦場の夢を。

思い出すのです。

血と鉄の匂い、焦げた風。

そして──」


「“剣聖がいれば勝てる”と笑い、信じて死んでいった戦友たちの顔を。」


「……っ。」


その言葉を聞いた瞬間、胸が締め付けられた。

彼女はわずかに笑っていた。

それは、痛みを飲み込む笑みだった。


「彼らは死の瞬間まで笑っていました。

絶望的な状況でも、希望に満ちて、その先の勝利を疑いもしなかった。

──その“希望”を背負わされた私のことは、きっと考えもしなかったでしょう。」


言葉が出ない。胸の奥で、何かが強く軋む。

彼女の心の奥底にある痛みに、触れた気がした。


「明日を夢見て、叶わずに死んだ。

誰も、護れなかった。

それでも、生き残った私は、生きるしかないのです。

彼らが生きられなかった明日を。」


「……ああ、ヴィクトリア。」


瞳の奥が滲んだ。


「貴女も、同じ夢を見るのね。

ずっと、こんな苦しみを抱えたまま、

それでも私を護ってくれていたのね。」


堰が外れ、涙が頬を伝う。

こんなに近くにいてくれたのに、

私は、何も分かっていなかった。


「……ほら、殿下は──こんなにも優しい。」


彼女が、ゆっくりと微笑む。


「あたしなんかのために、涙をくださる。」


彼女だって、こんなにも優しいのに。



風が止んだ。

薔薇の香が静かに薄れていく。

彼女の瞳は純粋で、夕暮れの太陽のような、優しい赤に染まっていた。


胸の奥が熱を帯び、鼓動が乱れる。

鼓動が、自分のものではないように響いた。

気づけば、私はゆっくりと、一歩ずつ、

彼女に歩み寄っていた。

赤い瞳が、わずかに揺れる。


次の瞬間、私は彼女の胸に飛び込んだ。

彼女の手を取ったあの夜のように、彼女の肩が強張り、喉の奥で息を呑む音がした。


「で、殿下──?」


戸惑う声。

構わず、その背に手を回し、そっと囁く。


「エレツィア、よ。」


「えっ?」


「ねえ、ヴィクトリア。前に言ったでしょう?

『エレツィアと呼んで』って。

なのに貴女は『不敬にあたります』って。

……でも、いま、呼んでほしいの。」


「それは──」

「不敬じゃないわ。私が許します。帝国の次期皇后が。

貴女にだけは、許可します。……よろしくて?」


「で、ですが……。」

「エレツィアよ。」


「……ねえ、ヴィクトリア。

私にとって貴女は、夢の中でも、夜を分かち合える唯一のひと。

そんなひとに、特別に呼ばれたいと思うのは……ワガママかしら?」


そう言って、視線を上げる。

彼女の赤い瞳が、すぐ近くで揺れていた。


「……うっ……。」

「お願い、ヴィクトリア。」


短い沈黙。

彼女は小さく息を吸い、かすかな声で言った。


「……エレツィア、様。」


「もう一度。」


「エレツィア様。」

今度は、はっきりと、確かな声で。

その声音は、どこまでも優しかった。

命を慈しむ、澄んだ響き。


「ええ。」

私は微笑む。


「ねえ、ヴィクトリア──抱きしめて?」


ぎこちない腕が、それでも優しく私の背に回る。

緊張に強張っていた彼女の身体が、ひと呼吸ごとに力を抜いていく。

騎士服の硬い布地の向こうに、確かな体温。

その温度が伝わって、胸の内側に、ゆっくりとあたたかさが満ちていく。


目を閉じる。胸に頭を預ける。

耳元で、彼女の鼓動が規則正しく鳴っている。

“生きている”という音が、こんなに優しいなんて知らなかった。

新しい涙が頬を伝う。それはさっき流した涙より、ずっと温かかった。


薔薇の庭園で、ふたりの影が重なる。

刺のある茎が風に鳴り、花弁は静かに揺れる。

あの日から心を蝕んでいた“絶望”は、

その風に溶けるように、消えていった。



遠く、鐘が鳴る。

昼と夕のあいだを区切る、穏やかな音。


私は顔を上げ、彼女の名を確かめるように呼んだ。


「……ヴィクトリア、ありがとう。

貴女のお陰で、私はまた、前を向ける。

あの子たちの分まで、明日を生きるわ。」


「はい、エレツィア様。

私は、いつでもお側におります。」


世界が、ほんの少しだけ、明るくなった気がした。

風が、薔薇の香を運んでいく。

夜と夢の境に、かすかな朝が滲み始めていた。

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