第13話:煉獄に沈む街(後編) ②
議会が閉会すると、宰相がゆっくりと歩み寄ってきた。
白い息を吐くように、穏やかな声でエレツィアに言う。
「王女殿下、この度はご災難でございましたな。
しかし、ノーレの奴輩めをこれ以上のさばらせてはおきませぬ。
速やかに対処いたしますゆえ、どうぞご安心を。」
「……ええ。ありがとうございます、宰相閣下。」
「おや、お顔色が優れぬようで。
老人の長話は退屈でしたかな?ほっほっほ……。」
柔らかな笑みの奥に、昏い刃が光った。
しかし、何も言わず背を向けて去っていく。
その足取りはまるで勝者のそれだった。
扉が閉まる音が、石の壁に反響する。
エレツィアは静かにヴィクトリアを振り返る。
「……ヴィクトリア、話があるの。」
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「わたくし、スラム街に行くわ。」
「なりません。危険です。」
「でも、このままではスラム街が──!」
「殿下が向かわれても、何も出来ません。」
そう断言され、エレツィアの瞳が揺れる。
「……何も、出来ない?」
「はい。──出来ることは、何もないのです。」
「でも……貴女なら──」
「私には騎士団の任務に干渉する権限がありません。
ここで無理に介入すれば、近衛を解任されます。
……そうなれば、殿下をお護りできなくなる。」
息が詰まる沈黙が落ちる。
それでも、エレツィアは唇を強く結んだ。
「……分かったわ。
ヴィクトリア、それでもわたくしは行く。
止められても、行くわ。」
「なりません。殿下──」
「なら、止めてみなさい。」
エレツィアの瞳が、強い光を帯びた。
「剣を抜く?殴りつける?──構わないわ。
それで止まると思うのなら。」
沈黙。
ヴィクトリアは奥歯を噛み締めた。喉の奥で、獣のような音がした。
赤い瞳が、昏い光を放つ。
「……そのようなこと、出来るはずがありません。」
絞り出すような声。
その声を聞き、エレツィアは哀しげに視線を落とす。
「……ごめんなさいね、ヴィクトリア。貴女の優しさにつけ込んで。
でも──割り切って見ていられるほど、大人じゃないの。」
目を伏せ、短く息を吐いた後、
ヴィクトリアは膝をつき、頭を垂れた。
「……畏まりました。ですが、私もお供します。」
⸻
帝都の空は、夕闇と夜の境を溶かしていた。
煤けた赤が灰色に変わり、遠くで鐘が鳴るたびに街が眠り始める。
しかし、帝都の一角──スラム街には、これから朝が訪れるかのような赤色が迫っていた。
ふたりがたどり着いた時、スラム街の入り口には、すでに数百の衛兵が配置されていた。
火を灯した松明の列が、壁のように街を囲む。
エレツィアが声をかけようとそこに近づいた途端、衛兵の持つ槍が交差する。
「止まれ!ここより先は立入──」
言葉の途中で、刃の音が響いた。
次の瞬間、槍の穂先が宙を舞い、石畳に突き刺さる。
「な──ッ!?」
驚愕の声が上がる。
ヴィクトリアの剣は既に鞘に戻っていた。
凛とした声で、静かに告げる。
「王女殿下の御前だ。不敬である。」
「け、剣聖様!?
そ、そして……王女殿下!?ご無礼を……!」
衛兵たちは蒼ざめ、慌てて跪く。
そうして、エレツィアが改めて声をかけた。
「衛兵さん。わたくし、あの中に入りたいの。」
「も、申し訳ありませんが……王女殿下といえど、通すわけには……!」
「──あの中に、大切なものがあるの。」
「し、しかし……職務として……。」
衛兵たちは王女を前にして狼狽えてはいるが、道を開ける気配はない。
それを見て、ヴィクトリアが一歩、前に出る。
「王女殿下、ここまでです。」
「ヴィクトリア……?」
紫水晶の目の持ち主が振り返り、瞳が困惑に揺れた。
「彼らは職務を果たしているだけです。ここで殿下を通せば、“職務に背き、王族を危険に晒した”として処罰されます。
──死罪も、あり得ましょう。」
エレツィアの唇が震える。
言葉を探す間もなく、ヴィクトリアの口の端が血で濡れていることに気付いた。
噛み締めた唇からは血が滲み、拳から滴る赤い滴が石畳を染める。
その眼差しは、燃える路地を貫いていた。
「……ここまで、です。」
⸻
その夜、帝都の空が赤く染まった。
火の匂いがした。
焼けた脂と鉄の匂いが、夜気よりも早く喉を満たす。
瓦礫の隙間を抜ける炎は更なる熱を生み、
悲鳴と怒号が、まるで同じ旋律のように混ざり合う。
スラム街が、燃えていた。
家が崩れ、人が倒れ、声が途絶えていく。
街を覆う炎が赤から白へ変わり、
世界の色が、ひとつずつ剥がれ落ちていく。
──風が、なかった。
だから炎は空へ逃げられず、街の中で蠢いていた。
それはただの殲滅ではない。
秩序が、殺意という形となって燃え上がっていた。
⸻
夜が明け、灰の中で雨が降り始めた。
冷たいはずの雨が、まだ温かかった。
衛兵の制止を振り切り、エレツィアは走り出す。
ヴィクトリアも黙ってその背を追う。
焦げた空気の中、踏みしめるたび靴底に何かが砕けた。
熱、煙、血、そして沈黙。
生きた気配など、どこにもなかった。
崩れた教会に辿り着く。
壁は焼け果て、ステンドグラスは色のない涙のように散っていた。
扉を押し開ける。
その中に、五つの影があった。
燃え尽きた木剣を握る小さな手。
「ロン……。」
黒く焦げた金槌が、傍らに転がっている。
「ビリー……。」
髪の片側にだけ、溶けたリボンが残る。
「アイシャ……。」
寝台の残骸の上、燃え残った炭を抱きしめている。
「レニ……。」
そして祭壇の前で、祈るように残った影。
「シスター・ベレッタ……。」
返る声はなく、静かに灰が降り続けていた。
エレツィアは膝から崩れ落ちた。
瞳から溢れる涙が止まらない。
胸の奥が裂かれんばかりに痛み、息がうまくできない。
嗚咽が、雨音と混ざる。
「わ、わた、わたしは……何もできなかった……。」
「“黎明の花”……?
“聖女”……?笑わせないで……!」
「私はただの──小娘にすぎないのに!!」
叫びが、焼け跡に響く。
それは祈りではなく、世界へ、そして己へ向けた呪詛だった。
「……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」
ヴィクトリアは動かない。
ただ傍に立ち、雨の中で外套を外すと、そっとエレツィアの肩に掛けた。
その手は、震える肩の上で一瞬だけ止まり、何も言わずに離れる。
雨が彼女の肩を叩く。顔に涙はない。
どこまでも静かに、ただエレツィアを見つめ続けていた。
雨は、止まなかった。




