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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
18/82

第13話:煉獄に沈む街(後編) ②

議会が閉会すると、宰相がゆっくりと歩み寄ってきた。

白い息を吐くように、穏やかな声でエレツィアに言う。


「王女殿下、この度はご災難でございましたな。

しかし、ノーレの奴輩めをこれ以上のさばらせてはおきませぬ。

速やかに対処いたしますゆえ、どうぞご安心を。」


「……ええ。ありがとうございます、宰相閣下。」


「おや、お顔色が優れぬようで。

老人の長話は退屈でしたかな?ほっほっほ……。」


柔らかな笑みの奥に、昏い刃が光った。

しかし、何も言わず背を向けて去っていく。

その足取りはまるで勝者のそれだった。


扉が閉まる音が、石の壁に反響する。


エレツィアは静かにヴィクトリアを振り返る。

「……ヴィクトリア、話があるの。」



「わたくし、スラム街に行くわ。」

「なりません。危険です。」


「でも、このままではスラム街が──!」

「殿下が向かわれても、何も出来ません。」


そう断言され、エレツィアの瞳が揺れる。


「……何も、出来ない?」

「はい。──出来ることは、何もないのです。」


「でも……貴女なら──」

「私には騎士団の任務に干渉する権限がありません。

ここで無理に介入すれば、近衛を解任されます。

……そうなれば、殿下をお護りできなくなる。」


息が詰まる沈黙が落ちる。

それでも、エレツィアは唇を強く結んだ。


「……分かったわ。

ヴィクトリア、それでもわたくしは行く。

止められても、行くわ。」


「なりません。殿下──」


「なら、止めてみなさい。」

エレツィアの瞳が、強い光を帯びた。

「剣を抜く?殴りつける?──構わないわ。

それで止まると思うのなら。」


沈黙。

ヴィクトリアは奥歯を噛み締めた。喉の奥で、獣のような音がした。

赤い瞳が、昏い光を放つ。


「……そのようなこと、出来るはずがありません。」


絞り出すような声。

その声を聞き、エレツィアは哀しげに視線を落とす。


「……ごめんなさいね、ヴィクトリア。貴女の優しさにつけ込んで。

でも──割り切って見ていられるほど、大人じゃないの。」


目を伏せ、短く息を吐いた後、

ヴィクトリアは膝をつき、頭を垂れた。

「……畏まりました。ですが、私もお供します。」



帝都の空は、夕闇と夜の境を溶かしていた。

煤けた赤が灰色に変わり、遠くで鐘が鳴るたびに街が眠り始める。

しかし、帝都の一角──スラム街には、これから朝が訪れるかのような赤色が迫っていた。


ふたりがたどり着いた時、スラム街の入り口には、すでに数百の衛兵が配置されていた。

火を灯した松明の列が、壁のように街を囲む。


エレツィアが声をかけようとそこに近づいた途端、衛兵の持つ槍が交差する。


「止まれ!ここより先は立入──」


言葉の途中で、刃の音が響いた。

次の瞬間、槍の穂先が宙を舞い、石畳に突き刺さる。


「な──ッ!?」


驚愕の声が上がる。


ヴィクトリアの剣は既に鞘に戻っていた。

凛とした声で、静かに告げる。

「王女殿下の御前だ。不敬である。」


「け、剣聖様!?

そ、そして……王女殿下!?ご無礼を……!」


衛兵たちは蒼ざめ、慌てて跪く。

そうして、エレツィアが改めて声をかけた。


「衛兵さん。わたくし、あの中に入りたいの。」


「も、申し訳ありませんが……王女殿下といえど、通すわけには……!」


「──あの中に、大切なものがあるの。」


「し、しかし……職務として……。」


衛兵たちは王女を前にして狼狽えてはいるが、道を開ける気配はない。

それを見て、ヴィクトリアが一歩、前に出る。


「王女殿下、ここまでです。」


「ヴィクトリア……?」


紫水晶の目の持ち主が振り返り、瞳が困惑に揺れた。


「彼らは職務を果たしているだけです。ここで殿下を通せば、“職務に背き、王族を危険に晒した”として処罰されます。

──死罪も、あり得ましょう。」


エレツィアの唇が震える。

言葉を探す間もなく、ヴィクトリアの口の端が血で濡れていることに気付いた。

噛み締めた唇からは血が滲み、拳から滴る赤い滴が石畳を染める。

その眼差しは、燃える路地を貫いていた。


「……ここまで、です。」



その夜、帝都の空が赤く染まった。


火の匂いがした。

焼けた脂と鉄の匂いが、夜気よりも早く喉を満たす。

瓦礫の隙間を抜ける炎は更なる熱を生み、

悲鳴と怒号が、まるで同じ旋律のように混ざり合う。


スラム街が、燃えていた。

家が崩れ、人が倒れ、声が途絶えていく。

街を覆う炎が赤から白へ変わり、

世界の色が、ひとつずつ剥がれ落ちていく。


──風が、なかった。

だから炎は空へ逃げられず、街の中で蠢いていた。


それはただの殲滅ではない。

秩序が、殺意という形となって燃え上がっていた。



夜が明け、灰の中で雨が降り始めた。

冷たいはずの雨が、まだ温かかった。


衛兵の制止を振り切り、エレツィアは走り出す。

ヴィクトリアも黙ってその背を追う。


焦げた空気の中、踏みしめるたび靴底に何かが砕けた。

熱、煙、血、そして沈黙。

生きた気配など、どこにもなかった。


崩れた教会に辿り着く。

壁は焼け果て、ステンドグラスは色のない涙のように散っていた。


扉を押し開ける。

その中に、五つの影があった。


燃え尽きた木剣を握る小さな手。

「ロン……。」


黒く焦げた金槌が、傍らに転がっている。

「ビリー……。」


髪の片側にだけ、溶けたリボンが残る。

「アイシャ……。」


寝台の残骸の上、燃え残った炭を抱きしめている。

「レニ……。」


そして祭壇の前で、祈るように残った影。

「シスター・ベレッタ……。」


返る声はなく、静かに灰が降り続けていた。


エレツィアは膝から崩れ落ちた。

瞳から溢れる涙が止まらない。

胸の奥が裂かれんばかりに痛み、息がうまくできない。

嗚咽が、雨音と混ざる。


「わ、わた、わたしは……何もできなかった……。」


「“黎明の花”……?

“聖女”……?笑わせないで……!」


「私はただの──小娘にすぎないのに!!」


叫びが、焼け跡に響く。

それは祈りではなく、世界へ、そして己へ向けた呪詛だった。


「……ああぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!!!」


ヴィクトリアは動かない。

ただ傍に立ち、雨の中で外套を外すと、そっとエレツィアの肩に掛けた。

その手は、震える肩の上で一瞬だけ止まり、何も言わずに離れる。

雨が彼女の肩を叩く。顔に涙はない。

どこまでも静かに、ただエレツィアを見つめ続けていた。


雨は、止まなかった。


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