第12話:煉獄に沈む街(中編)
夜の闇を、ふたつの影が進む。
霧に濡れた石畳が、灯りの乏しい路地に鈍く光を返していた。足裏で水音が鳴り、裾に冷気がまとわりつく。
「お嬢様、足元にお気をつけください。」
「大丈夫よ、ヴィク。ありがとう。」
ふたりは身分を隠すため、粗末な外套に身を包んでいた。
“商家の令嬢シャルル”と“その護衛ヴィク”。
王女と近衛の気配を、慎重に消してゆく。
再び足を踏み入れたスラム街は、息を潜めたように静まり返っていた。
どこかで猫が鳴き、湿った空気の中に、腐臭が混じる。
(……静かすぎる。)
人の気配はある。だがそれは、生の鼓動ではない。
病と恐怖に押し潰され、街そのものが息を止めていた。
「チッ……こんな所で野垂れ死にやがって。」
路地の向こうで、鎧の軋む音。
衛兵の靴が水たまりを裂き、死体を無造作に転がした。
「こいつも疫か?スラムのゴミはいくら死んでも構わねぇが、俺たちの手間を増やすなよな。」
「……死者に、なんてことを。」
エレツィアの囁きが震える。
ヴィクトリアは目線だけで制し、低く返す。
「死は珍しいものではありません。──これが、この街の“日常”です。行きましょう。」
その瞬間、エレツィアの足が濡れた石畳に取られた。
「きゃっ!」
衛兵がその声を聞き、声を上げる。
「誰かいるのか!」
「まずい……お嬢様、こちらへ。」
ふたりは駆け出した。
怒声が夜気を裂き、霧がランタンの光を滲ませる。濡れた石が滑り、心臓の鼓動が耳の奥を叩く。
金具の打音が近づき、路地の角を曲がるたびに光の円が背中を舐めた。
そうして飛び込んだのは、古びた教会。
朽ちた扉が軋み、崩れた壁面が目に映る。
煤で曇ったステンドグラスが淡く光を反射し、蝋燭の小さな炎が頼りなく揺れていた。
身を柱の陰に寄せると、追手の足音が扉の前を駆け抜け、舌打ちと共に遠ざかっていった。
足音が遠ざかり、ようやく息を整えた。
「……驚かせてしまったわ。ごめんなさい、ヴィク。」
「いえ。お怪我はございませんか。」
「大丈夫。ありがとう。」
「もし……お客様ですか?」
静かな声が響く。
奥から現れたのは、まだ年若い修道女だった。
質素な衣の下から覗く手は荒れ、頬はやつれている。
それでもその瞳には、優しさの光が宿っていた。
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「…シスター、夜分に突然申し訳ありません。」
「私はシャルル。こちらは護衛のヴィク。少し夜風を浴びたくて抜け出したのですが、道に迷ってしまって……衛兵に見つかると、叱られてしまうんです。」
無邪気な笑みは、見る者の警戒を容易く解いてしまう。
修道女は何度か目を瞬かせたが、やがて小さく頷いた。
「……そうでしたか。これも神のお導きでしょう。わたくしはシスター・ベレッタ。ここで孤児院を営んでおります。
…ですが、長居はなさらぬ方がよいでしょう。疫が流行っているのです。」
「まあ……。」
「孤児たちの中にも、一人倒れた子がいて。
日に日に容体が悪くなっています。」
ベレッタは哀しげに顔を伏せる。
それを見て、エレツィアは一歩前に出た。
「シスター、その子を診させてください。
助けられるかもしれません。」
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奥の部屋には、痩せた少女が一人、寝台に横たわっていた。
唇は紫に染まり、息をするたびに胸が小さく上下する。
ベレッタがその少女に、優しく声をかける。
「レニ……お医者様が来てくださったわ。」
「……だれ……?」
その小さな声には、苦痛の色が深く滲んでいた。
エレツィアの瞳が揺れ、思わず息を呑む。
だが、一拍の後、静かな声と共に微笑んだ。
「こんばんは、レニ。私はシャルル。貴女の身体を診させてね。」
ヴィクトリアがエレツィアに低く囁く。
「お嬢様、これは希釈されたノーレの毒です。喀血、発熱、意識混濁。治療法は確立していません。」
「……なんということ。」
エレツィアは少女の額に手を当て、静かに瞳を閉じた。
「頑張ったわね。もう、怖くないわ。」
次の瞬間、部屋が光に満たされた。
柔らかな緑の輝きが、春風のように少女を包む。
蝋燭の炎が震え、壁に淡い陰影が重なった。
体温のような温もりが、室内の冷気から棘を抜いていく。
「……あれ?からだが痛くないよ。」
不思議そうに目を瞬かせ、少女の頬に血の色が戻る。
その姿を見て、エレツィアは満足そうに目を細めた。
「よかったわね、レニ。」
ベレッタは思わず膝をつき、指を組んで声を震わせる。
「なんて……なんてこと……神よ……!」
その時、扉が勢いよく開いた。
何人かの子どもたちが顔をのぞかせる。
幼く明るい歓声が、室内に響いた。
「レニ、治ったの!?なんで!?」
「すげー!緑の光がブワーって!」
「まぁ、あなたたちったら!」
叱ろうとしたベレッタの声を、エレツィアの微笑みが和らげる。
「こんばんは。私はシャルル、こっちのお姉ちゃんはヴィク。
ひとりずつ、お名前を教えてくれる?」
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最初に挨拶をしたのは、おもちゃの木剣を持った少年だった。
「俺はロン!ヴィク姉ちゃんは剣士なんだろ?
俺も剣士になって、シスターを守るんだ!」
「……そうか。護るものがあれば、きっと強くなれる。」
「へへっ!」
次に、小さな金槌をポケットに入れた短髪の少年。
「ぼくビリー!鍛冶屋になるんだ!
ロンになんでも斬れる剣を作ってあげるの!」
「いい夢ね。きっと立派な剣が打てるわ。」
「うん!」
黄色いリボンを片側だけ結んだ少女が、小さく手を挙げた。
「アイシャ。……リボンは泣かないおまじない、なの。」
「きれいね。そのリボン、きっと貴女を守ってくれるわ。」
「…ありがと。」
ベッドの上のレニが笑う。
「わたし、絵を描くの。見ててね。」
炭で紙をなぞりながら、
「シャルルお姉ちゃんは“花のお姫様”。
ヴィクお姉ちゃんは、“それをまもる立派な剣”。」
「……面白い表現だな。」
笑い声が教会に満ちた。
わずかな時間だけ、この街に“平和”が戻っていた。
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夜更け。
子どもたちが眠りについたあと、ベレッタが静かに頭を下げた。
「……ありがとうございました。
あの子たちのあんなに明るい笑顔を見たのは、いつ以来でしょう。」
「どういたしまして。……けれど、どうしてこんな場所で孤児院を?」
「……わたくしもここの出身なのです。
育ててくださった司祭様がいらっしゃったのですが、数年前にスラムの民に乱暴を働かれ……。
それに──帝国の民は、神を忘れました。
寄進もほとんどなく、食べさせるのもやっとですが……それでも。
親のいないあの子たちを、誰かが見守ってあげなければ。」
その言葉を聞き、エレツィアは静かに息を吸う。
紫水晶の瞳が灯に照らされ、決意の光を宿していた。
「シスター。わたくし、あなたの願いを支えます。子どもは国の宝。
……この子たちの未来を護るのは、わたくしたちの責任です。」
「え…?」
「……お嬢様……。」
「ヴィク。わたくしの気持ちは変わらないわ。
この人たちも、この国の民。民を護るのが、わたくしの務めよ。」
ベレッタの目が見開かれ、その瞳が衝撃に揺れる。
そして、静かに胸に手を当て、涙をこぼした。
「……近ごろは“宵闇の花”などと呼ばれていましたが、貴女様はやはり“黎明の花”です。
どうか、この国に光を。」
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教会を出ると、霧が再び濃くなっていた。
夜風が外套を揺らし、濡れた石が月影を散らす。
「……ばれてしまったわね。」
「……普通のご令嬢は、“民を護る”なんて言葉を使いません。」
ヴィクトリアの言葉を聞き、
「それもそうね」とエレツィアが悪戯のばれた子どものように笑う。
「でも、よかったわ。
陰謀は止められなかったけれど、ひとりの命を救えた。
少しずつ、変えていきましょう。焦らずに。」
「……はい。」
ふたりは短く目を合わせ、歩を速めた。
月は雲に隠れ、帝都は深い霧に沈む。
遠い鐘の前触れもないまま、夜だけが深くなっていった。
遠くで梟が鳴いた。
霧の中に繰り返し響くその声は、
夜の闇を見つめ、笑っているようだった。




