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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
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第11話:煉獄に沈む街(前編)

ヴィクトリアがスラム街に潜入してから、幾度目かの夜が明けた。

帝都を覆う霧は重く、まるで戦場に漂う血煙のようだった。


やがて、城下に、奇妙な噂が流れ始める。


「スラムで疫が出た。王女が帝国に来てからのことだ。」

「王国から“呪い”を持ち込んだんだ。」


帝国の民は神を信じない。

だが、“自分を害する見えない力”だけは、誰もが信じている。

そうして、人々は自ら、恐怖に形を与えた。


“黎明の花”──本来は希望を象徴するその名が、

いつしか“宵闇の花”と囁かれるようになった。


噂は街から侍女の口を伝い、やがて城内へと静かに滲み込む。


エレツィアが廊下を歩くたび、衣擦れとともにひそやかな声が立つ。

視線を向ければ、皆一様に目を逸らした。


帝都は、沈黙の下で燃え始めていた。



夜。


「……剣聖様、よろしいでしょうか。」


王女殿下の部屋を辞した時、ラウラが声をかけてきた。

月光の下で、その顔は不安に染まっている。


「ラウラ様。ご用件をお伺いします。」


「“様”はおやめください!」

慌てて両手を振る仕草に、一瞬だけ空気が和らいだ。

だが、その声には確かな震えがあった。


「最近、侍女たちの間で……姫様が“呪いの花”だという噂が広がっているのです。

もしかして、以前スラムで聞いた話と関係があるのではないかと……。」


(……判断を誤った。安全を優先しすぎた。

ノーレの毒を“呪い”とすり替える──実に狡猾だ。)


あの夜、スラム街で掴んだ証拠は、文官を通じて皇太子殿下へ送った。

ノーレの陰謀が暴かれれば、流言も自然と消えるはずだった。

だが、殿下からの返答はまだない。

その間に“敵”は先に動き、王女殿下の名誉を削り取っていった。


わずかに目を伏せ、口を開く。


「……ご心配をおかけしました。

これは反対派、あるいは外部勢力による陰謀の可能性が高いです。」


「そんな……姫様が、どうして……!」


ラウラのはしばみ色の瞳が見開かれた。

その声音には、哀しみと衝撃が滲んでいる。


「ですが心配はいりません。証拠はすでに皇太子殿下の手に渡っています。

遠からず、真実は明らかになるでしょう。」


ラウラは胸に手を当て、安堵の息を吐いた。

「……良かった。姫様……本当に……。」


「ラウラさん。あの夜、貴女が勇気を出して知らせてくれなければ、

今頃もっと多くの命が失われていたでしょう。感謝しています。」


「そ、そんな……恐れ多いです!」


頬を真っ赤に染めて頭を下げると、ラウラは小走りに去っていった。


(あと数日だ。皇太子殿下の指示が届けば、この噂も止む。)


陰謀は暴いた。

数日のうちに全ては白日の元に晒される。

──それだけの話のはずだった。

だが、その“数日”という猶予こそが、帝都を覆う霧のように、真なる悪意を隠していた。



翌日。


「……聞いたわよ、ヴィクトリア。」


近衛の任務のために殿下の私室に向かうと、

王女殿下が腕を組み、わずかに眉を吊り上げていた。

その声には、怒りよりも悲しみが滲んでいる。


「侍女たちの噂、知っている?

“わたくしの呪いのせいでスラムに疫病が蔓延している”ですって。」

「……殿下の耳にも届きましたか。」


「ええ。

──でもね、そんな噂、すぐに解消する方法があるの。」

「……と、仰いますと?」


そう尋ねると、殿下は組んでいた腕を解き、腰に手を当てる。

紫水晶の目が、得意げに細められた。


「わたくしがその疫病を癒して見せればいいのよ。

病魔を祓えば、もう呪いなんて存在しないわ。」

「……は。」


あまりに突拍子もなく、思考が止まる。

ノーレの毒は触れるだけで命を蝕む。そんな危険を冒すなど論外だ。

そう思い、静かに首を振った。


「……おやめください。殿下に医術の心得があったとしても、未知の疫病です。危険すぎます。」

「ふふ。誰が“医学”の話をしたかしら?」


王女殿下はゆっくりと右手を掲げた。

次の瞬間、室内の空気が揺らぎ、柔らかな緑光が迸る。

花弁が舞うような香りが広がり、空気が淡く震えた。


「……っ!」


あたたかな風が身体を包み、痛みも疲労も、すべてが霧のように消えていく。

騎士服の袖を捲ると、かつての古傷も、初めから無かったかのように消えていた。

その衝撃に、声が震えるのを感じた。


「まさか……これは……。」


「ええ。癒しの魔力よ。」

微笑みながら、殿下は告げた。

「王国で“聖女”と呼ばれていたのは、ただの称号ではないわ。」



魔術。


それはこの大陸では忌むべき力とされていた。

遥か西の島国リュイペでは研究の道具に。

帝国では異端として扱われ、王国では教会によって根絶された。


──争いで魔術を振るうのは、北の果ての“魔族”のみ。


癒しの魔術を操る者など、もはや伝説にしか存在しない。

その奇跡が、いま自分の目の前にある。


膝を折り、深く頭を下げた。

「……癒しの魔力をお持ちとは。殿下が沈黙を守られていた御心、お察しいたします。」


「ふふ、とっておきなのよ。」

王女殿下は小さく笑った。

「“癒しの聖女”が“疫病を広める魔女”なわけがない。そうはっきり示せばいいのよ。」


「ですが……許可できません。」

顔を上げ、言葉を選んで続ける。

「……どうして?」


「……殿下。不要と思い伏せておりましたが、これは疫病ではありません。“ノーレの毒”です。

反対派が仕掛けた陰謀でございます。

治癒を試みても、“自作自演”と誹られるだけでしょう。」


「それでも、行きたいの。」


一瞬、空気が止まった。

鈴のような声には芯のある響きが残り、

瞳はまっすぐで、揺らぎがない。

その決意の声音は、祈りに似ていた。


「今、苦しんでいる人たちには、わたくしたちの都合は関係ないわ。

たとえ陰謀が暴かれても、その間に失われた命は戻らない。

“毒”なら癒せる。

──それなら、行く理由は十分でしょう?」


思わず、沈黙した。

それは命令でも訴えでもなく、民を想う“聖女”としての悲痛な願いだった。

心が揺れる。わずかな時間、逡巡する。


……だが、視線を上げ、まっすぐに紫水晶の瞳を見つめ返した。


「……許可、できません。私は貴女の近衛です。貴女の安全が最優先だ。」


「お願い、ヴィクトリア。」

それでも、その声は、

その瞳のように、まっすぐだった。


「このまま見過ごしたら、わたくし、自分を許せなくなる。」


長い沈黙のあと、私は静かに跪いた。

「……殿下の御心のままに。」



その夜、ふたりは密かに城を抜けた。

月は雲に隠れ、街を覆う霧はかつてなく濃かった。


その霧の奥で、鈍く光るものがあった。

それが炎か、血かは──まだ、誰にも分からなかった。

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