第10話:帝都の陰影(後編)
廊下を歩くたび、靴音が石壁に反響する。
静まり返った回廊に、思考の断片が流れ込んでくる。
『ここまでの情報統制……宰相の仕業と見ている。このタイミングで俺に露見したのも、奴の計算のうちかもしれん。』
『俺の不在を狙って、必ず何かが起こる。
そして最も狙われるのは、婚約者どのだろう。』
『城下で噂を耳にしました。
反対派の者たちが、姫様の身の回りで、よからぬことを企んでいると。』
(──皇太子殿下を地方に引き離し、その隙を突いて王女殿下を害するつもりか。)
筋は通る。
……だが、“通り過ぎている“。
脳裏に、冷たい警鐘が鳴った。
姿の見えぬ誰かが、糸を引いている。
だが、すでに王女殿下が狙われている。
深く考えるより先に、身体が動いていた。
──灰の市場周辺を、探るしかない。
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自室に戻り、騎士服を脱ぐ。
金糸の飾緒も団章も、寝台に投げた。
皇帝陛下から賜った黒曜の剣を剣帯から外し、代わりに鋼の無銘剣を腰に差す。
手に馴染む重みが、心を静めた。
──夜の帝都に潜むには、剣聖の威光はあまりに眩しすぎる。
灰色の雲を通した月光が、帝都の石畳に滲む。
帝都の夜は冷たい──そして、静かすぎた。
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スラム街。
そこは帝都の片隅に口を開けた“もうひとつの世界”だった。
薄汚れた煉瓦、崩れた屋根、湿った臭気。
それでも人は生きている。灯りの代わりに焚き火が、祈りの代わりに沈黙が、路地を満たす。
記憶の中のスラムとは、街の骨組みが違っていた。
再建の痕はある。だが、それは「立ち直り」ではなく「切り捨て」の跡。
石目は荒く、継ぎ目には職人の矜持がない。生活の匂いのかけらも見当たらない。
(……焼けてから、随分経つはずなのに。)
風のない夜。
胸の奥で、昔日の鈍い痛みが軋んだ。
煤にまみれた幼い手。腹の虫の音。暴力を秩序とする街の空気。
──焦げた木材と鉄の匂いが、まだどこかに残っていた。
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路地の奥で、ひとりの男が目についた。
肩を揺らし、酒瓶を手に歩いてくる。
手には夜の闇を反射し光る、短いナイフ。
「おぉい、てめぇ。ここのもんじゃねぇな。」
「……。」
「おい、無視してんじゃねぇぞ!」
激昂する男。
男を静かに見やり、軽く息を吐く。
刹那、空気が鳴った。
抜刀。
冷たく輝く刃が、男の喉元で止まる。
殺意は込めずとも、死は確実にそこにあった。
「騒ぐな。余計なことは喋るな。手短に、私の質問にだけ答えろ。」
「ひ、ひぃっ……!」
「最近、外から来た人間が多く出入りしている場所はあるか。」
「あ、あっちだ!“灰の市場”の突き当たりの屋敷!あいつら、ここの奴じゃねぇ!」
「……そうか。」
顎を剣の柄で叩き、男を気絶させた。
酒と血の匂いが、路地の中に微かに漂う。
──夜が動いた。
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屋敷は、“灰の市場”の端にあった。
場違いなほど立派な石造り。
窓は厚いカーテンで閉ざされ、鉄格子まで取り付けられている。
外壁には、軍用の塗料がまだ剥げ残っていた。
(貴族の持ち物か、それとも……。)
考えるより早く、壁を駆け上がり屋根から忍び込む。
闇に紛れ、息を潜める。
屋敷の中には人の気配はなく、冷たい静寂に包まれていた。
会議室と思われる一室の長机には地図、蝋燭の残骸、乱雑に散らばる羽ペン。
そして、机の中央には帝都の図と赤い印が見える。
(これは……破壊工作の計画か。)
その時、背後に気配を感じた。
刃が空を裂く音が響く。
部屋の入り口に音もなく、フードと覆面の男が立っていた。
短剣の切っ先が、月のない室内で鈍く光る。
一歩、床板が軋む。
相手は躊躇なく踏み込む。
鋼が打ち合い、闇の中で金の火花が弾けた。
男の動きは鋭く、訓練されている。
それでも、剣聖にとっては一歩遅かった。
三撃目。
男が短剣を突き出す。──狙いは腕。
だが、その刃が届くことはなかった。
無銘の剣が銀色の弧を描き、男の喉を裂く。
血が飛沫を描き、音もなく床に散った。
沈黙が落ちる。
ヴィクトリアは膝をつき、死体を調べた。
男の持つ短剣の刃は薄く湿り、鈍い光を放っている。
(毒か。だが、これは──)
懐からは、透明な液体の小瓶が見つかった。
瓶の口を開くと、鼻腔を刺す微かな刺激がし、
瓶を持つ指の皮膚がじり、と痺れた。
(……ノーレの毒。)
ノーレの毒。
二年前、多くの仲間を奪った劇毒。
無味無臭で、検出も解毒も難しい。
火で炙ると、毒々しい紫色に変わる。
透明の色の裏に、冷たい殺意が籠っている。
机の上の紙束を手に取る。
「計画書」と記された表紙。
中には、帝都の地図とスラム街を中心に散らばる無数の印──そして見出し。
『王女の帝都入りに合わせ、ノーレの毒を用い、スラム街を中心とする“感染”の噂を流布。罪を王女に帰すべし。
帝都の混乱に乗じて、孤立させた王女自身にも“感染”を。』
息が詰まる。
それは「反対派の策略」ではなく、「帝都そのものを壊す毒」だった。
(……ノーレ。やはり、奴らが背後にいるか。)
その名に、二年前を思い出し、思わず歯を噛み締める。
だが、思索はすぐに次へと進んだ。
(……これは反対派の足元すら崩しかねない計画だ。誰が、何のために。)
疑問は残る。だが今は、証を運ぶことが先だった。
紙束と小瓶を懐に入れ、屋敷を出た。
スラム街の路地を抜ける風は冷たく、夜の闇は重く沈んでいる。
帝都の空は、厚い雲に覆われていた。
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城に戻ると、すでに深夜を過ぎていた。
それでも、皇太子殿下の執務室には灯りがあるはずだ。
──そう信じて扉を開いた。
だが、執務机の前に立っていたのは皇太子殿下ではなく、若い文官だった。
その文官は深夜の来訪者に驚きつつも、丁寧に口を開いた。
「皇太子殿下は、地方巡幸のためご出立なさいました。
陛下のご容体が優れぬため、代理としてのご出向と伺っております。」
「──まずは、どちらへ?」
「北西の穀倉地帯へ向かうとのことです。
何か報告があれば、伺います。」
(……やはり。反対派を鎮めるために。)
スラム街で入手した証拠を懐から取り出し、机に並べる。
「殿下に伝えてください。
スラム街で破壊工作の兆しを確認。ノーレの毒の痕跡あり。」
外国勢力の暗躍と聞き、文官の顔が一瞬で蒼白になる。
だが、すぐに真剣な表情で頷いた。
「……速やかに報告を上げます。」
深く頷き、廊下に出た。
灯りの消えた王城は、まるで巨大な墓標のように静まり返っている。
王女殿下が狙われている──
だが、何かが違う。どこか、“辻褄が合いすぎている”。
城内を巡る夜の風が、まるで誰かの息のように首筋を撫でた。
月のない夜の中、梟が鳴く。
その声は風に乗り、夜に沈んだ帝都に響く。
帝都の陰は、見通せぬほど深く、
その底には、まだ見ぬ“黒い毒”が流れていた。




