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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
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第9.X話:“剣聖”と第一騎士団


時は少し遡る。


近衛騎士に任じられて数日目の朝。

ヴィクトリアが、一日だけの暇乞いを申し出た。


「珍しいのね。いつも任務以外では外へ出ないのに。」

「……第一騎士団への教導の期日でして。」

「教導?剣を教えるの?」

「その通りです。“剣聖”の責務の一つです。」


静かな声。

その奥に、硬い意志の温度があった。


「分かったわ──でも、近衛は離れないで。わたくしも行くわ。」

「……えっ。」


表情の変わらぬまま、赤い瞳だけがわずかに揺れた。

それが驚きであると気づくまで、少し間があった。



第一騎士団の練兵場は城内にあり、灰色の石壁に囲まれていた。

朝の冷気が鉄の匂いを運び、砂の床に光が落ちる。

騎士たちの振る剣の音が、硬い規律のように、空を震わせていた。


視察用の席に案内してくれた後、

団長が進み出て、踵を打ち鳴らす。


「第一騎士団は帝都での要人の警護を主任務とします。

閉所において槍よりも小回りの効く剣の腕を重んじ、実戦に即した訓練を実施しております。

──剣聖殿の教導は、恒例にて。」


「素晴らしいご精励ですわ。あなた方に護られるのなら、安心できます。」

「ありがたきお言葉、感謝いたします。

……とはいえ、王女殿下の近衛が剣聖殿では、我らの出番も当分なさそうですが。」


ふと、疑問に思ったので問いかける。


「団長様。ヴィクトリアは第一騎士団所属で、あなたの部下なのですよね?

どうして、“剣聖殿”と?」


「そうですな……。

帝国の“剣聖”は慣例上、第一騎士団に籍を置くのですが、実際の“格”は団長と同等、団長不在なら臨時に指揮も執れます。

任命も我らとは違い、陛下のご親任。──つまり“皇帝の騎士”です。

故に、すべての騎士が敬意を払う、という次第でして。」


(それは…名実共に“騎士の頂点”ね。そんな人が、私の側に……)


無意識に、胸の奥に小さな熱が灯る。

その時、低く、澄んだ声が練兵場に落ちた。


「遅い。」

「……お前も遅い。」

「──とにかく、遅い。」


黒曜の剣の主が、練兵場の中央に立っていた。

表情の変わらぬまま、淡々と告げる。

騎士たちの剣先がわずかに揺れ、困惑が走った。


思わず、団長の方を見る。


「あの…さっきから『遅い』としか言っていませんわ。」

「……彼女は概説より、実践向きなのです。」


「ヴィク!『遅い』だけじゃわかんねえよ!」

「どうすりゃ速くなるんだ!」

「教導に来たんならちゃんと教えろ!」


若い騎士たちからは不満──いや、どこか親しげな野次が飛ぶ。


(“すべての騎士が敬意を払う”……のよね?)


ちらりと伺うと、

団長は額に手を当て、嘆いた。

「最初は皆、剣聖殿を畏れ敬っておったのですが……剣聖殿が怒らぬのを良いことに、今ではこの有様です。」


「いっそのこと立ち合えよ、見て盗む。」


騎士の一人がそう言うと、赤い瞳が、僅かに光を宿した。

ヴィクトリアは鞘を鳴らし、顎で示す。

「いい提案だ──誰でもいい、来い。」


威勢の良い返事と共に、数名の騎士が前に出た。

砂が鳴り、空気が止む。

裂帛の気合いと共に、騎士が踏み込んだ。


──一合。乾いた音。

──二合。靴底が砂を裂く。

──三合。風は動かず、黒曜の閃きだけが残った。


黒曜の剣は、必要な軌跡しか描かない。

単純な速さではなく、徹底的な無駄の欠如。

それが剣聖の“速さ”だった。


「遅い。」

相手の腕を流し、柄で手の甲を突く。

「足が剣より先に出ている。」


「遅い。」

振り下ろされた剣を難なく払い、肩を指で叩く。

「腕だけで振るな。肩を使え。」


先ほどと同じように、淡々と告げる。

そうして、第一騎士団の騎士たちは次々と打ち倒されていった。


「遅い。」

最後の二人を迎えた時、彼女は一歩だけ“待った”。

二人の騎士の刃が交わる瞬間に角度を変え、

互いの剣を噛み合わせて砂に沈める。

「周囲をよく見ろ、死ぬぞ。」


転がった剣の音が、乾いた砂に沈む。

しばしの沈黙ののち、誰かが小さく息を吐いた。


「……おい、こりゃ勝てん。」

「当たり前だ、勝てりゃお前が剣聖様だ。」

「違いねぇ。──だが、せめて汗の一滴ぐらいは流させたかったな。」


冗談まじりのぼやきに、空気がほどける。

重苦しかった緊張が霧のように散り、

騎士たちの笑いが、あちらこちらで弾けた。


「やめんか、馬鹿者ども!王女殿下の御前だ!」

団長の叱声に、空気が再び固まる──が、


「申し訳ありません、団長!…ですが、これは無理ですな!」

「なんでこんな剣が振るえるのか、我らには全く分からんのです。──笑うしかありません!」

「剣聖に栄光あれ!帝国よ永遠なれ!」


次の瞬間にはもう、笑いと歓声が抑えきれずに広がった。

乾いた空に響くその声は、奇妙なほどに晴れやかだった。



夕暮れの回廊。

石畳を茜が染め、影が長く伸びる。


「ふふ、怒られてしまったわね。」

「……お見苦しいものを。申し訳ありません。」


その声音は凛としているのに、どこか肩が落ちていた。

そのわずかな変化が、彼女を“剣聖”という英雄ではなく、ひとりの人間らしく見せた。


「いいのよ。皆、楽しそうだったもの。」

「……楽しそう、ですか。」


「ええ。わたくしも楽しかったわ。

“遅い”の意味、ちゃんと伝わっていたわよ。」


赤い瞳が、わずかに細くなる。

それは、笑みというには淡い仕草。


「……そう、ですか。」


「本当よ。──これからも、色々なヴィクトリアを見せてね。」

「……は。」


回廊の端で、灯がともる。

炎が小さく揺れ、ふたりの影を重ねた。

身体をなぞる風が、わずかに冷たい。


その冷たさを感じながら、エレツィアは思う。

──この人は、“皇帝の騎士”でありながら、

誰よりも、人を護ろうとしている。

騎士たちへの彼女なりの真摯な指導が、その証。


笑いの余韻の向こうで、

帝都の陰が、ゆっくりと形を濃くしていった。


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