第9.X話:“剣聖”と第一騎士団
時は少し遡る。
近衛騎士に任じられて数日目の朝。
ヴィクトリアが、一日だけの暇乞いを申し出た。
「珍しいのね。いつも任務以外では外へ出ないのに。」
「……第一騎士団への教導の期日でして。」
「教導?剣を教えるの?」
「その通りです。“剣聖”の責務の一つです。」
静かな声。
その奥に、硬い意志の温度があった。
「分かったわ──でも、近衛は離れないで。わたくしも行くわ。」
「……えっ。」
表情の変わらぬまま、赤い瞳だけがわずかに揺れた。
それが驚きであると気づくまで、少し間があった。
⸻
第一騎士団の練兵場は城内にあり、灰色の石壁に囲まれていた。
朝の冷気が鉄の匂いを運び、砂の床に光が落ちる。
騎士たちの振る剣の音が、硬い規律のように、空を震わせていた。
視察用の席に案内してくれた後、
団長が進み出て、踵を打ち鳴らす。
「第一騎士団は帝都での要人の警護を主任務とします。
閉所において槍よりも小回りの効く剣の腕を重んじ、実戦に即した訓練を実施しております。
──剣聖殿の教導は、恒例にて。」
「素晴らしいご精励ですわ。あなた方に護られるのなら、安心できます。」
「ありがたきお言葉、感謝いたします。
……とはいえ、王女殿下の近衛が剣聖殿では、我らの出番も当分なさそうですが。」
ふと、疑問に思ったので問いかける。
「団長様。ヴィクトリアは第一騎士団所属で、あなたの部下なのですよね?
どうして、“剣聖殿”と?」
「そうですな……。
帝国の“剣聖”は慣例上、第一騎士団に籍を置くのですが、実際の“格”は団長と同等、団長不在なら臨時に指揮も執れます。
任命も我らとは違い、陛下のご親任。──つまり“皇帝の騎士”です。
故に、すべての騎士が敬意を払う、という次第でして。」
(それは…名実共に“騎士の頂点”ね。そんな人が、私の側に……)
無意識に、胸の奥に小さな熱が灯る。
その時、低く、澄んだ声が練兵場に落ちた。
「遅い。」
「……お前も遅い。」
「──とにかく、遅い。」
黒曜の剣の主が、練兵場の中央に立っていた。
表情の変わらぬまま、淡々と告げる。
騎士たちの剣先がわずかに揺れ、困惑が走った。
思わず、団長の方を見る。
「あの…さっきから『遅い』としか言っていませんわ。」
「……彼女は概説より、実践向きなのです。」
「ヴィク!『遅い』だけじゃわかんねえよ!」
「どうすりゃ速くなるんだ!」
「教導に来たんならちゃんと教えろ!」
若い騎士たちからは不満──いや、どこか親しげな野次が飛ぶ。
(“すべての騎士が敬意を払う”……のよね?)
ちらりと伺うと、
団長は額に手を当て、嘆いた。
「最初は皆、剣聖殿を畏れ敬っておったのですが……剣聖殿が怒らぬのを良いことに、今ではこの有様です。」
「いっそのこと立ち合えよ、見て盗む。」
騎士の一人がそう言うと、赤い瞳が、僅かに光を宿した。
ヴィクトリアは鞘を鳴らし、顎で示す。
「いい提案だ──誰でもいい、来い。」
威勢の良い返事と共に、数名の騎士が前に出た。
砂が鳴り、空気が止む。
裂帛の気合いと共に、騎士が踏み込んだ。
──一合。乾いた音。
──二合。靴底が砂を裂く。
──三合。風は動かず、黒曜の閃きだけが残った。
黒曜の剣は、必要な軌跡しか描かない。
単純な速さではなく、徹底的な無駄の欠如。
それが剣聖の“速さ”だった。
「遅い。」
相手の腕を流し、柄で手の甲を突く。
「足が剣より先に出ている。」
「遅い。」
振り下ろされた剣を難なく払い、肩を指で叩く。
「腕だけで振るな。肩を使え。」
先ほどと同じように、淡々と告げる。
そうして、第一騎士団の騎士たちは次々と打ち倒されていった。
「遅い。」
最後の二人を迎えた時、彼女は一歩だけ“待った”。
二人の騎士の刃が交わる瞬間に角度を変え、
互いの剣を噛み合わせて砂に沈める。
「周囲をよく見ろ、死ぬぞ。」
転がった剣の音が、乾いた砂に沈む。
しばしの沈黙ののち、誰かが小さく息を吐いた。
「……おい、こりゃ勝てん。」
「当たり前だ、勝てりゃお前が剣聖様だ。」
「違いねぇ。──だが、せめて汗の一滴ぐらいは流させたかったな。」
冗談まじりのぼやきに、空気がほどける。
重苦しかった緊張が霧のように散り、
騎士たちの笑いが、あちらこちらで弾けた。
「やめんか、馬鹿者ども!王女殿下の御前だ!」
団長の叱声に、空気が再び固まる──が、
「申し訳ありません、団長!…ですが、これは無理ですな!」
「なんでこんな剣が振るえるのか、我らには全く分からんのです。──笑うしかありません!」
「剣聖に栄光あれ!帝国よ永遠なれ!」
次の瞬間にはもう、笑いと歓声が抑えきれずに広がった。
乾いた空に響くその声は、奇妙なほどに晴れやかだった。
⸻
夕暮れの回廊。
石畳を茜が染め、影が長く伸びる。
「ふふ、怒られてしまったわね。」
「……お見苦しいものを。申し訳ありません。」
その声音は凛としているのに、どこか肩が落ちていた。
そのわずかな変化が、彼女を“剣聖”という英雄ではなく、ひとりの人間らしく見せた。
「いいのよ。皆、楽しそうだったもの。」
「……楽しそう、ですか。」
「ええ。わたくしも楽しかったわ。
“遅い”の意味、ちゃんと伝わっていたわよ。」
赤い瞳が、わずかに細くなる。
それは、笑みというには淡い仕草。
「……そう、ですか。」
「本当よ。──これからも、色々なヴィクトリアを見せてね。」
「……は。」
回廊の端で、灯がともる。
炎が小さく揺れ、ふたりの影を重ねた。
身体をなぞる風が、わずかに冷たい。
その冷たさを感じながら、エレツィアは思う。
──この人は、“皇帝の騎士”でありながら、
誰よりも、人を護ろうとしている。
騎士たちへの彼女なりの真摯な指導が、その証。
笑いの余韻の向こうで、
帝都の陰が、ゆっくりと形を濃くしていった。




