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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第二章
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第9話:帝都の陰影(中編)


式典から数日後、皇太子殿下より呼び出しを受けた。

指定された部屋に入ると、すでに王女殿下が椅子に腰掛けていた。

窓越しの朝光が金糸の髪を淡く照らし、背後に白い光輪を描く。

私は静かに一礼し、その後ろに控える。


「あら、ヴィクトリア。晩餐会でお見かけしたけれど、人が多くて声をかけられなかったわ。ごめんなさい。」

「……いえ。ご婚約、心よりお祝い申し上げます。」


「ふふ。ありがとう。貴女に祝ってもらえるのが一番嬉しいわ。」

「……恐縮です。」


「ふむ、仲睦まじいようで何よりだ。」


皇太子殿下の低い声が部屋を引き締める。

表情には僅かに翳りがあれど、疲労を隠さずとも威厳は揺るがない。

その姿は、“帝国そのもの”だった。



「黒曜、正式に辞令を下す。今より王女殿下の近衛を命ずる。」

「──はっ。」

「あら、これからはヴィクトリアが側にいるのね。頼もしいわ。」


「貴様以外にこの任を果たせる者はいない。何か不都合があれば申し出よ。調整する。」

「謹んで拝命いたします。」


皇太子殿下が椅子に深く腰を下ろす。

陽光に照らされ、横顔に鋭い陰影を描いた。


「──そして、これからの話は、二人に関わる。」



「まず、正式な婚姻は延期とする。時期は未定だ。」

「……まあ。」


「理由は二つある。一つ目は“反対派”だ。奴らの工作は想定を超えていた。地方では反乱寸前の気配すらある。このまま強行すれば、帝国は割れる。」


短い沈黙。小さく息を呑む音。


「ここまでの情報統制……宰相の仕業と見ている。このタイミングで俺に露見したのも、奴の計算かもしれん。」


抑えた怒りが声の底に沈む。

王女殿下は唇を結び、静かに息を吸った。


「……そして二つ目。俺が地方を回り、事態の鎮静にあたる。北西の穀倉地帯から始めれば、二月は戻れん。」

「……つまり、花婿不在の婚礼になるのですね。」

「そうだ。そんなものを民は祝わぬ。婚約者どのには帝国の都合で振り回すこと、詫びねばならん。」


王女殿下はわずかに目を伏せ、

やがていつもの穏やかな笑みで顔を上げた。


「いえ。婚姻を結べば、わたくしも帝国の民。国内の不安を見過ごすことなど出来ませんわ。

それに……待つ時間も、きっと意味のあるものになります。」


「……感謝する。城内で不便があれば、何でも言ってくれ。俺に出来ることならば処理しよう。」

「ありがとうございます、殿下。」


皇太子殿下は短く頷き、ふたりに軽く手を挙げて部屋を後にした。



扉が閉まると、朝の静けさが戻った。

窓辺の埃が光に浮かび、床の上に細い金の帯をいくつも描いている。

ふたりの呼吸だけが、同じ間隔で揺れた。


王女殿下がこちらを振り返る。

視線が合い、ほんの一瞬、言葉にならない確信が交わる。


「ねぇ、ヴィクトリア。“剣聖”が“王国王女”の近衛に就く──それが、どんな意味を持つか、わたくしにも分かっているわ。

でも、貴女がいてくれるなら、どんな困難も乗り越えられる。わたくしはそう信じているの。」


「……殿下の信頼に応えられるよう、身命を賭してお仕えいたします。」


「ふふ。頼りにしているわ。これからは“王女の近衛騎士”として、よろしくね。」


窓から差す朝光が、殿下の横顔を柔らかく縁取った。

その光は、まだ細いが、確かな希望を感じられた。



近衛一日目は、正直に言えば、大変だった。

王女殿下が、明らかに“はしゃいでいた”のだ。

紫水晶の瞳を輝かせ、何度も此方を振り返る。


『ヴィクトリア、あれは何?壺?花瓶?』

『……私にも判別がつきません。』


『帝国の装飾って、王国とはずいぶん違うのね。どう思う?』

『その……柱だな、と。』

『ふふふ。貴女らしい感想ね。』


『そろそろ食事ね。ヴィクトリアは何が好き?良かったら一緒に食べましょう。』

『ご相伴は、規則により…』

『ふふ、そう言うと思った。分かったわ。規則は大事よね。』

『…は。

それと、私の好物は…焦げ目のついた、パンです。』

『まあ…教えてくれてありがとう。大人の味ね。』


『ねぇヴィクトリア、貴女はお休みの日は何をするの?貴女のことが知りたいの。』

『…寸暇がある時には、剣を研ぎに街へ出るか、鍛錬を。』

『そうなのね──剣を研ぐところ、見てみたいわ。今度見せてね。』

『……承知しました。』


質問攻めに次ぐ質問攻め。

私の答えが面白いとも思えないのに、殿下はずっと笑顔だった。

その笑みは、帝都の冷えた空気を少しだけ溶かしてくれた。



そうした日々が何日か過ぎて、夜。

殿下の部屋を辞して廊下を歩く。

遠い廊楼で時刻の鐘が鳴り、燭台の炎が石壁に長い影を揺らした。

槍先がどこかで石を擦る、微かな音。

城は眠っているが、眠りは浅い。


「も、もし……剣聖様。」


声に振り向くと、栗色の髪の年若い侍女が立っていた。

燭台に照らされて尚、エプロンを握りしめた指先が白い。肩が細かく震えている。


「貴女は──」

「はい。王国の頃から姫様の側仕えを……ラウラと申します。

その……お耳に入れたいことがございます。」


私は自然と姿勢を正す。

周囲に人影がないのを確かめ、廊下の角へ身を寄せた。

石の目地に沁みた夜の冷気が、胸元まで上がってくる。


「お伺いします。

……殿下のお耳には入れたくない話、ですね?」

「は、はい……!申し訳ありません。」


ラウラは息を整え、早口に落とす。


「実は──城下で噂を耳にしました。

反対派の者たちが、姫様の身の回りで、よからぬことを企んでいると。姫様を、貶めようとしていると……。」


「……それは、どこで?」

「スラム街の“灰の市場”と呼ばれるあたりです。

わたし……道を誤って、偶然聞いてしまって……。」


──灰の市場。

露店が密集し、スラムの住人の集まる袋路だ。

スラム街ゆえの噂も集まる。信憑性は高いだろう。


「すぐに確認いたします。知らせてくれて感謝します。」

「えっ……信じてくださるのですか?」


「無論です。殿下を想い、勇気を出してくれたのでしょう?あとはお任せください。」


そう言って振り返ろうとする姿を、ラウラの声が引き留める。

そして、深く頭を下げた。


「あ、剣聖様!そ、その……以前、助けていただいたのに怯えてしまって……!

本当に、申し訳ありませんでした!」


「気にしていません。──ですが、ありがとう。」


その一言に、ラウラのはしばみ色の瞳が見開かれ、頬が紅に染まる。

言葉にならない吐息が漏れ、すぐに飲み込まれた。

廊の陰で炎が揺れ、ふたりの影が重なって細くなる。


私は耳を澄ます。

誰かの足音が、遠くから、こちらへ向かって来る。

合図のように、風が燭火を細くした。


「──誰かが来ます。今夜のことは、これで。」

「はい……!」


ラウラが小さく頷き、影の中に消える。

私は静かに踵を返した。

灰の市場へ向かう経路が、頭の中で一本に結ばれていく。


──帝都の夜は長い。

その闇の中に、ひとつの影が消えていった。


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