第8話:帝都の陰影(前編)
──帝都の大広間。
百を超える燭台が天井のドームを照らし、黄金の装飾に淡い光が反射していた。
軍旗と王家の紋章が左右に翻り、白磁の床に列を成す貴族たち。
音もなく奏でられる弦の調べに、全員の視線がひとつの扉へと注がれた。
扉が開かれる。
まず、黒の軍装を基調に紅をあしらった皇太子、
クロイツァー・オルヴァンスが進み出た。
鍛え上げられた体躯と、氷を思わせる静かな瞳。
その歩みは、まるで絵画から抜け出した伝説の英雄そのもののようであった。
その腕に寄り添うのは──彼女の髪色と同じ金糸を織り込んだ純白のドレスを纏う王女、
エレツィア・シャルル・エルスーア。
一歩進むたび、ドレスの裾が光を掬い、まるで夜に降臨した暁の女神のようだった。
会場の隅、遥か後方からその様子を眺めるのは、
漆黒の礼装に身を包んだひとりの女騎士。
黒曜の剣聖──ヴィクトリア・ロムルス。
黒を基調とした軍礼服の襟元には、金糸の刺繍。肩章と赤いサッシュが、冷たい光を受けて微かに揺れている。
光を護るために生まれた影が、静かにふたりを見守っていた。
「──皇帝陛下のおなり!」
衛兵の声が高らかに響き、全員が膝をつく。
「面をあげよ。」
低く、しかし圧倒的な威厳を帯びた声。
クロイツァーと似ているが、そこには歴戦の重みがあった。
玉座の上に座すのは、白銀の髭を湛えた男──シルヴァ・オルヴァンス帝。
その瞳は歳月に磨かれた鋼のように光り、動かぬ山を思わせる風格を静かに放っていた。
彼がひとたび視線を上げるだけで、広間の空気が震える。
「エルスーア王国第一王女、エレツィア・シャルル・エルスーアにございます。
このたびの拝謁の栄、恐悦至極に存じます。」
「うむ……両国の平和は、大陸に安寧をもたらすであろう。
そなたの役割、実に重きものと知れ。」
「非才の身なれど、全力を尽くします。」
皇帝はエレツィアへ視線を向ける。
その瞳は、王女の心を見透かすかのように鋭く、
“試している”ようにも思えた。
エレツィアは静かに息を吸った。
彼女の中で、最初の緊張が“覚悟”へと変わっていく。
針の落ちる音すら響きそうなほどの、
沈黙。
──やがて、皇帝は満足げに頷き、重々しく宣言した。
「オルヴァンス帝国皇太子、クロイツァー・オルヴァンス。
エルスーア王国第一王女、エレツィア・シャルル・エルスーア。
この両名の婚約を──ここに発表する!」
瞬間、広間に万雷の拍手と歓声が湧いた。
貴族たちの内心はどうあれ、この場で祝意を示さぬ者はいない。
帝国の未来を象徴する婚約式。
それは大陸の均衡を左右する政治的儀礼でもあった。
⸻
晩餐会の会場には、香水と燭煙が入り混じった甘い匂いが満ちていた。
絢爛たる衣装の貴族たちが杯を掲げ、祝辞を並べる。
エレツィアはそのひとりひとりに笑顔で応じていった。
「おめでとうございます、王女殿下。
我ら臣下一同、歓迎申し上げますぞ。」
「ありがとうございます、グライド伯爵。
帝国の皆様の温かさに心打たれております。これからよろしくお願いいたします。」
「……本当にお美しい。
もし王女殿下が皇太子殿下の婚約者でなければ、私も花婿候補に立候補していたところです。」
「まあ、そんなことをおっしゃっては奥様に叱られてしまいますよ、ノーム侯爵。」
何度も繰り返された社交のやり取り。
エレツィアは、帝国貴族の笑顔の奥に“視線の網”を感じ取っていた。
(誰もが笑っている。
でも──誰もが、探っている。)
そこへ、ひときわ異質な気配が近づいてきた。
茶の混じる白髪。
老齢ゆえの白が目立つが、瞳だけは鋭く光る。
丸みのある顔には温厚そうな笑み──だが、その奥に冷たい知略の刃が潜んでいた。
「王女殿下、この度はご婚約、誠におめでとうございます。ファーガス侯爵と申します。」
「ありがとうございます。……では、宰相閣下。」
「うむ。僭越ながら宰相を務めております。いやはや、老骨には堪える職でしてな、ほっほっほ。」
その笑みには、まるで油の膜のような滑らかさがあった。
悪意を感じさせぬままに、言葉を刃へと変える男──帝国の宰相。
「王女殿下、どうか両国和平の“象徴”として、末永く皇太子殿下の隣にお立ちくださいませ。
民は、花が咲いていさえすれば満足いたしますゆえ。
こまごまとしたことは、臣下たる我々にお任せを。」
──“お飾りであれ”、という遠回しな毒。
エレツィアは柔らかく微笑んだ。
そして、一歩も引かぬ眼差しで返す。
「ふふ、それは心強いお言葉ですわ。
公務を果たす上で、閣下のご助力を頼りにさせていただくこともあるでしょう。」
笑みのままに応酬。
“黙っていると思うな”という凜とした意思が、透き通る声に宿る。
周囲の貴族が圧に息を呑んだ。
お互い柔らかく微笑んでいるのに、
背後には牙を剥く雌虎と翼を広げた老梟が見えた気がした。
「宰相。あまり俺の婚約者をいじめるな。」
声の主はクロイツァー。
一歩で空気を変える威圧を纏い、ふたりの間に入った。
「ほっほ……いやいや、仲睦まじいようで結構。
帝国の未来は明るいですな。
では、老いぼれはこれにて失礼を。」
「……ふん。
婚約者どの、奴には気をつけろ。
反対派の筆頭であるというだけではない。
俺が“帝国の獅子”なら、奴は“帝国の老梟”だ。
夜にも目を光らせ、何を考えているか分かったものではない。」
「……そうなのですね。助けていただき、ありがとうございます。」
「ふっ……貴女に俺の助けなど要るまい。
それより、そろそろダンスの時間だ。」
「まあ…お迎えに来てくださるなんて、光栄ですわ。」
「婚約者として当然のことだ。
──では、俺と踊っていただけますか?麗しいご令嬢。」
クロイツァーが完璧な礼を取る。
その仕草は理想の貴公子そのもので、誰もが息を呑んだ。
「ふふ……はい。喜んで。」
エレツィアがその手を取る。
楽団が旋律を奏で、ふたりが中央で舞い始める。
黄金の光の中、二人はまるで光と影のように寄り添い、旋回した。
ドレスが翻り、二人の影が中央に重なる。
指先が触れ合い、掌の温度が伝わる。
足元で靴音が響き、旋律が空気を包み込む。
視線が交わるたびに、貴族たちのざわめきが遠のいていった。
帝国の夜に、短い安息が訪れたかのようだった。
──壁際。
ヴィクトリアは影のように、静かにその光景を見つめていた。
彼女の胸の奥で、何かが疼いた。
それは嫉妬ではなく、誓いの疼き。
“この光を護るのだ”という祈りに似た痛みだった。
金と黒が交わる舞踏の夜。
輝きの裏で、帝都の“影”が、
静かに動き始めていた。




