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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第一章
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幕間:執務室にて

「来たか、黒曜。」


皇太子殿下の執務室を訪れたとき、彼は机に向かっていた。

黒檀の机には、整然と積まれた書簡と数本の羽根ペン。

背後の壁には帝国の紋章が金の糸で織り込まれた旗が掛かり、

床一面の大理石が、月光を淡く反射している。


香炉からは微かに沈香が漂い、

その香りが、紙と墨の匂いに溶け合っていた。


“帝都の中心”。

その静寂さえも、彼の支配下にあるようだった。


「まずは、この度の任務、ご苦労であった。──レッゾ子爵の件、報告は受けている。」

「……」


「それと、教会勢力と王国騎士の襲撃もな。

……まったく、我が婚約者どのは随分と人気者のようだ。

貴様がいなければ、どうなっていたか。」


苦々しげな息。

けれどその声音の底には、わずかな安堵の響きがあった。


「他に気になることはあるか。」

「……一点、ございます。」


「申せ。」


「いくつか貴族領を通過いたしましたが、婚姻に否定的な気配が目立ちました。

最初は敵国の姫君ゆえの偏見かと思いましたが……帝都の反応を見るに、

何者かが意図的に“流れ”を作っている節がございます。」


「……ふむ。」


殿下は顎に手を添え、静かに視線を落とした。

青い瞳が、紙の上に影を落とす。


「貴様の見立ては正しい。

反対派は帝都での“説得”を諦め、今は地方での工作に移っている。

言葉を飾れば国を憂う志士だが、実際はただの利権の亡者だ。……まったく、勤勉なことよ。

自らの権益を守るためなら、帝国を切り売りすることすら厭わん。」


紙の端を握る手に、力がこもる。


「『大陸の台所』たる大穀倉地帯の存在をはじめ、王国と結ぶ利点は多い。

帝国の未来のためには、今ここで手を打たねばならん。」


その声は冷静だった。

だが、ほんの僅かに焦燥の熱を帯びていた。


「──そこで、貴様に“頼み”がある。」


「“頼み”…ですか?」


思わず顔を上げた。

殿下は、個人的な頼みなど決して口にしない方だ。

いつも冷徹に、命じる側の人間だった。


「そうだ。我が婚約者どの──エレツィア王女のことだ。彼女を、貴様に託したい。」


「……は。」


「何を驚く。説明してやる。」


軽く息を吐き、背もたれに体を預ける。


「反対派の背後には、教会勢力や諸外国の影も見える。根が深く、繊細な問題だ。

俺の派閥にも限界がある。帝都なら掌中だが、地方に手を伸ばすには、俺自身が出ねばならん。」


「そうなれば──帝都は均衡を失う。

俺の不在を狙って、必ず何かが起こる。

そして最も狙われるのは、婚約者どのだろう。」


「つまり──王女殿下を囮に。」


「ふっ。口が悪いな。」

唇の端がわずかに歪む。

「俺は婚約者どのを案じているだけだ。故郷を離れ、随分と心細いだろうとな。」


「聞いているぞ。随分と彼女に気に入られたらしいな。

それとも──気に入ったのは貴様の方か?」


その瞬間、胸の奥が軋んだ。

答えられず、ただ沈黙する。

感情を押し殺し損ね、小さく息を呑んだ。


「無言は肯定と取るぞ。まあいい。貴様が彼女の側にいれば、俺も心配事がひとつ減る。

優しくしてやれ。……ああ、必要とあらば、帝国式の“優しさ”でも構わん。貴様に任せる。」


「……はっ。」


「形式としては近衛騎士だ。

だが近衛騎士団所属ではなく、第一騎士団からの出向という形にする。

それならば、これまで通り、どの派閥からも干渉されまい。命令書は数日中に発布する。」


「御意。」


その言葉を口にしながらも、

胸の奥で、ひとつの痛みが生まれていた。

任務としては理想的だが、

──それでも、“命令”であることが、どこか苦しい。


沈黙が落ちた。

紙の音が止む。


殿下は書簡を閉じ、ふと此方に目線を上げる。


「……黒曜。まだ──“あの夢”を見るのか。」


一瞬、空気が張り詰めた。

「……はい。」


「そうか。」

短い沈黙。

その間に、ほんの微かな同情が揺れたように見えた。


「ですが、昨晩だけは──見ませんでした。」


「……そうか。」


わずかに、彼の口元が和らぐ。

それは、皇太子としてではなく、ただの一人の人間としての笑みだった。


「政治の都合ではあるが……それでも、貴様にとって悪い話ではあるまい。

婚約者どのが貴様に良い影響を与えているのなら、俺としても喜ばしい。」


「──ありがたく。」


頭を下げると、

殿下は再び書簡を開き、視線を戻した。

それが、“話は終わりだ”という無言の合図だった。



執務室を出て、廊下を歩く。

月光に照らされた大理石の回廊は、静寂に包まれていた。


(……また、あの方のお側に。)


胸の奥に、静かに熱が灯る。

“命令”ではなく、“誓い”として。


この城は、陰謀と欲望が渦巻く毒の庭。

彼女が独りで、美しく咲き続けるには──あまりに残酷だ。


だが、ふたりなら。


ふと、記憶の底に光が差す。

あの夜、焚き火の向こうで殿下が見上げていた星々。

風に揺れる金の髪と、瞳に映った光。

『平和な時代を、ふたりで見届けましょう。』

その声が、確かに胸の奥で響いていた。


今度こそ、正しく護ってみせる。


遍く星々が煌めく帝都に、誓いのような吐息が溶けていった。


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