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アルドレア戦記  作者: 猪飼 要
第一章
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第1話:黒曜に託す剣

火の匂いがした。

焼けた脂と血に濡れた鉄が、夜気より先に喉へ落ちてくる。

瓦礫の隙間を抜ける風は熱を孕み、

遠くで耳を貫く絶叫が響き渡った。

悲鳴か、怒号か…それらが混ざり合い、夜闇に溶ける。


如何に老兵と言えど、私も帝国騎士の端くれ。

命令に従う義務を持つのは、騎士の宿命。

──だが、今夜の命令は、あまりに醜かった。


皇帝が遠征に出た隙を衝き、一部の帝国貴族が“粛清”を命じた。

「不要な者どもを掃除せよ」「帝都のダニを駆除せよ」

──彼らは口々にそう言った。

私はそれを止められず、部下を率いて闇に沈む街角を進んだ。


命令を下すだけでも済んだ。

けれど私は、鞘から剣を抜いた。

“護るための剣”を掲げてきた自分が、今から奪う。

その報いを、自分の手で受け止めるために。


スラム街の乱雑な石畳に血が散った。

鉄と血の匂いが混じり、肺が焼ける。

刃を払うたび、胸の奥に薄い亀裂が増えた。

後悔でも、懺悔でもない。もっと乾いた音で、

何かが、静かに崩れていく。


──その時だった。


「近寄るんじゃねえ!」


掠れた、しかし鋭さを帯びた少女の声。

振り向くと、見えたのは小さな影。

泥と埃にまみれた黒髪、頬の煤。

手には錆びた刃。光すら放たず、少女の手に収まっている。


影の中に光っているのは、赤い瞳だけ。

その赤に滲んでいる感情は恐怖ではない。

憎悪に似た強い敵意と、生き延びるという固い意志。


「うわぁぁぁぁっ!」


錆びた剣が、こちらへ振り下ろされる。

刃こぼれだらけの鉄の塊。なのに、目を見張るほど速い。

思わず受け流すと、手首が痺れた。

小さな体から出る重さではない。

獣じみた一撃。

私はこの日初めて、息を飲んだ。


(──ッ!化け物め。)


口の端で呟き、剣を弾く。

甲高い音が割れ、錆びた剣は根元から折れた。

折れた刃が泥へ沈み、少女の膝も崩れ落ちる。

それでも、目だけは逸れない。

私の眼を、焼くように見上げてくる。


動けなかった。

指は柄を握り、刃は彼女の喉元に届く距離。

“奪う”ことは簡単だ。命令が背中を押している。

だが、刃の先にあるのは、今まさに自分が踏み砕いた街の、生き残り。

奪うために振るってきた剣が、迷いに揺れた。


私は剣を返し、鞘へ入れた。

少女に向かって膝をつき、視線の高さを合わせる。


「ここで死ぬには、惜しいな。貴公──私と来ないか。」


言葉が出た瞬間、胸の亀裂が僅かに埋まった気がした。

この夜、私は初めて“命を奪わない剣”を選んだ。



奇妙な日々が始まった。


「あたしの名前?ねぇよ。」


そう言うので、名を与えた。

“ヴィクトリア”。かつて我が家に生まれるはずだった、そして叶わなかった名だ。


礼儀を教え、言葉を教え、そして剣を教えた。

スラムで覚えた獣の勘は、剣術にも活きた。

水が石畳に染み渡るように、ヴィクトリアの剣の腕は上達していった。


「れーぎ?マナー?なんだよそれ。」

「飯を奪わずに、座って待つことだ。」

「ハハッ、剣よりむずいじゃん。」


二人分のパンを持って席に戻ると、彼女はいつも素早く自分の分を奪い取り、指先でぎこちなくパンをちぎった。


一度、私はわざとパンを焦がした。パンを奪い取る癖をやめさせようと思ってのことだ。


その日、彼女は一瞬ためらったが、やはり素早くパンを奪い、焦げた部分を指で削ぎ、黙って私の皿に焦げを乗せた。


「お前が食え」と言うと、「やだ。オッサン、嫌い」と小さく返した。

その夜、私は何年振りかに長く笑った。


「オッサン、強えな!」

「当たり前だ。お前の百倍は生きている。」

「へぇ…オッサン。ひゃくばい、って、何?」

「…………明日は、計算の勉強だな。」


あの夜と変わらず、真っ直ぐに私を見つめる彼女の瞳には、あの夜の赤がまだ残っていた。

けれど日毎に、その色が柔らかくなっていった。


奪うために握っていたはずの手が、いつしか再び“護る”ために柄を確かめる手つきになる。

笑うたび、胸の亀裂が少しずつ薄れていくのが分かった。



数年が過ぎた頃、召集の号令が降りた。

標的はエルスーア王国。先の敗戦での雪辱を果たしたい連中が、皇帝の野心に火を投げ込んだ。


「オッサン、行くのか?」

「……ああ。」


言葉にすると、体温が一つ下がった。

これが最後になる予感は、老いた故の勘か。


「ヴィクトリア。お前には才能がある。騎士になれ。偉大な騎士に。」

「……なんだよ、いきなり。」

「言っておきたかっただけだ。」


彼女は眉をほんの少し寄せ、何か言いかけてやめた。

その代わり、いつもより長く背中を見送っていた。

──振り返ることは、しなかった。



雨だ。

ぬかるみは血を飲み、剣はどこかへ落ちた。拾う理由は、もうない。


仰向けの視界に、灰色の空が千切れて流れる。

痛みは、降りしきる雨に溶けて消えた。


ひどく冷たいのに、不思議と静かだ。

遠い雷鳴のように、心臓だけがまだ鼓動を鳴らしている。


名前を呼ぶ。


「……ヴィクトリア。」


口の端が、わずかに緩んだ。

あの子は強くなる。私など、すぐに追い越す。

その姿を見られぬことだけが、惜しい。


どうか、迷うな。

奪うためではなく、護るために剣を振れ。


あの夜の私のように、剣を汚すことなく──いや、違う。


剣は、汚れる。だからこそ、選べ。


お前はまだ選べる。


あの夜、私は一度だけ選べた。


雨が頬を叩く。

それが空か涙かは、もう分からない。

目を閉じると、焦げたパンの匂いがした。

──遠くで、少女の笑い声も。



数年後。

皇帝の玉座の間に、漆黒の騎士服を纏うひとりの少女が跪いた。


“剣聖”の称号を拝命するその瞬間、赤い瞳が穏やかに揺れる。

玉座の間の床石は冷たく、朝の光は白かった。


──見ていてください、義父上。

あなたの剣は、ここにある。


誇り高き帝国騎士団長クラウス・ロムルスの剣は、少女の中で脈を打ち続け、

やがて大陸の歴史に、黒曜にきらめく軌跡で刻まれていく。

書き溜めていた分は連投します。

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