第20話 スモークの香りと人間の境界線
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◇
納屋の表、陽だまりの中に、甘やかな春の香りがしている。
地面に置いた木箱のそばでゴーシュが、ジュノに手本を見せていた。
「なにも調理用の金網がなくたっていいんだ。鉄線ならどこの陣地にもある。それで編んじまえばよろしい」
ゼブラ・ゴーシュの前に置かれた五段組みの金網の上で、鱒の切り身のスライスたちが、くゆる煙に巻かれている。
金網のいちばん下には、くすぶるチップを乗せた皿。その下には木箱の蓋が逆さまに赤土の地面へ置かれている。
ゴーシュは、ジュノの手を借りて、その煙る金網の塔へと、逆さまに持ち上げた木箱を被せていく。
木箱の目地は、練った赤土で丁寧に埋めてある。
被せ終わった木箱は、さながら運搬中、地面に落とした積荷だ。
その上に、ゴーシュは集めておいた重石を載せていく。
「風で飛ばされたり、好奇心の強えバカが中を覗かないようにな。こうやって石やレンガをのせておくんだ」
ジュノも手伝いながら言った。
「でも、ここには僕とマールムさんしかいませんよ」
ゴーシュは鼻をすすった。
「前線でのことさ。色んなヤツがいるからな。半日から一昼夜、蓋を開けずに放置しておくんだ。こうやって石でも置いておかないと、バカがやって来て余計なことをするんだよ」
ジュノは、その言葉に悟った。この人は、技術うんぬんではなく、経験そのものを教えてくれているのだと。
「文字で注意書きをしておくのは、どうでしょうか」
ゴーシュは石を並べ終えて、腰をさする。
「いいアイデアだが、戦死判定その1だな。バカはそもそも注意書きを読まねえ」
彼らが前にする木箱の中では、今、濃厚にくゆる煙が鱒のスライスの表面を優しく撫でている。
木箱の底蓋から、それでもわずかに薄い煙を漏らしている。
ゴーシュは、そこに足で土を盛り上げて被せていきながら、南の岩山を見上げた。
「それに、この砦にはもう一匹、居候がいてな」
ジュノにもピンと来た。
「もしかして、タヌキですか?」
「そう。見たのか」
「ええ。昨日。はじめて見ました」
ゴーシュは赤土で汚れた指を避けて、手の甲で鼻を擦りあげた。
「ポン太って言うんだが、メスでな。……で、あとは放置。半日置こうか。風もないし、とりあえず、ひとやすみと行こう」
満足そうに、丸太の輪切りを持ち出してきて、ジュノと交互に水筒を煽る。
チップの残り香と、山間の冷気と、喉を通る井戸水が、〝今〟を鮮やかに切り取る。
「いいもんだろ」
「ええ。ほんとうに」
ふたりは、斜向かいに掛けた薪割り台から、漏れ出る煙を眺めた。
空の青さに、非武装地帯《DMZ》の緑。
サクラの樹皮から滲み出る樹脂の柔らかな香りは、どこか桃色の春を帯びている。
木箱の変わらない表情を眺めていると、まるで野営地を思い出すのか、ゴーシュが目を細めてつぶやいた。
「コーヒーでも、入れるか」
そう腰を上げたゴーシュの脇を、小さな風が通り、煙の向きが変わる。
心地よさに身を預けながらも、ジュノの胸の奥には、くすぶる煙のような疑念が残っていた。
ここでの暮らしが愛しくなればなるほど、これが、いつか覚める夢のように見えてくる。
この人は本当に、半魔の僕を三ヶ月、手もとに置いておく気なのか。
こわくはないのだろうか。
いや。歴戦の英雄のこと。怖くないのだとしても、自分がここに居座ることで、ゼブラ・ゴーシュの出世が妨げられたりしないだろうか。
そのとき、頭上から、立ち上がっているゴーシュの声がした。
ジュノは、顔を上げた。
「はい?」
ゴーシュは繰り返した。
「コーヒー、飲めるのかって聞いてんの」
ジュノが慌てて口を開いた。
「──あ、はい。……いや、でも、良いのですか。こんな自分のような半魔を砦に置いていて」
弄んでいた小枝の先を、ゴーシュは弓のように曲げて飛ばしてから、ポケットに右手を入れた。
「ここに居るのが嫌かね」
そう尋ねながら、ふたたび丸太へと腰を下ろした。
ジュノは、首を横に振った。
「そんなことはありません」
沈黙があって、ジュノは続けた。
「しかし、この人間の王国において、半魔が公職に就くことは原則として禁じられているはずです」
それは事実だ。
だからジュノを呼び戻したヴォルモール家も、彼に家名を名乗らせていない。
そして、言わずもがな、ゴーシュもその原則は知っている。
「まあ……そこは砦の判断。つまりおれの一存だからな」
そう言いながら、ゴーシュは、ポケットの中で何かを握った。
「知っているだろうが、カルナス渓谷の撤退戦。あのときの本当の英雄ってのはな……」
そう聞いて、ジュノの耳が立った。
ゴーシュは、ポケットから手を出し、鼻から小さく息を漏らした。
「お前と同じ。半魔の子ども達だったんだ」
原則も、戦時は例外だった。市民権を餌に半魔や亜人を集めて人間は彼らを激戦地に送り込んだ。その多くが戦火に散り、少なからずが生き延びた。だが戦後、彼らは純人間ではない二級市民として扱われ、とりわけ人間に擬態できる半魔は警戒の的だ。
ゴーシュが右手を開いたとき、中には小さな革の巾着袋が載っていた。
「十二名いた。生き残ったのはおれだけだ。あたりめえだよな。撃ったのは、この……」
ジュノは、革袋のことも、呼吸することも忘れた。
ただ、目の前の英雄と呼ばれる男の告白に、耳を疑った。
「うそですよね……」
ゴーシュは、そう呟くジュノの呆然とした目を一度見た。
「そんな話、読んだことないです。ゴーシュさまの伝記にはない話です」
「ほんとうさ。若王を逃すために、おれがやった」
ゴーシュは、革袋に祈るように、それを握ったまま額の皺にあてた。
「だからかな。おれはね、違うんじゃねえかなって思うんだよな。今、お前さんを追い出すってのは」
ふしくれだって、ヒビの入った指。薬指の先は欠けている。
風が撫でた髪の中に縦傷が走り、まぶたも左右で高さが違う。
ゼブラ・ゴーシュの、古兵の顔が曇る。
「そりゃ、衝動のままに生きる〝魔物〟のままじゃ危なっかしくて、とても砦には置いておけないけれどもよ……」
ジュノの目を、ちらっと見て、ゴーシュは続けた。
「おめえは、ちゃんと、迷って、こらえて、まいにち人間してるじゃねぇか」
ゴーシュの言葉が、ジュノの胸に染みこんできた。
この砦の主の無気力のように見えた目は、種族という外面では無く、行いという内面の発露そのものを事実として見てくれたのだろう。
沈黙の中、ジュノの胸に、それが静かな波のように打ち寄せてくる。
目の奥で、凍っていた寝雪が、水になっていく。
目頭が熱くなるのを、煙のせいにしたくなって、ジュノは木箱を見た。
その肩が、かすかに震えた。
ゴーシュは、頬杖をついたまま言葉を継ぐ。
「……思うに、結局、人間ってのは、生き方で人間にも魔物にもなるんだよ」
そのまま視線を、煙の向こう、森へとやる。
「紙の命令書に従って、粛々と非道を行い……。人間の中にも、魔物はいる」
ゴーシュの手の中で、革袋が握りしめられ、碁石のような音を立てた。
彼は、力無く言った。
「おれだって、この通り。明るい道ばかり歩いてきたわけじゃないだからな」
ゴーシュは、そう言うと、何が入っているのか、その革袋をポケットにしまった。
「それによ。マールムは、あんなかんじでいつもフワフワしているが、ひと一倍に悪意ってものには鼻が利くんだ」
あの娘が、ジュノに心を開いている。それが何よりの証だとでも言うようにゴーシュは、彼のことを見つめた。
けれども、次の瞬間、ゴーシュは思い出したように面を上げた。
「──しかしよ、話は変わるが手際良かったじゃねーか。一体どうやったんだい」
笑みを浮かべて尋ねてきた。ジュノは、急に元に世界に戻ってきたような顔をした。
「え、切り身……のことですか?」
「そうさ。この箱の中に鱒のことさ。あいつ、ダメだって言わなかったのか?」
「いえ。マールムさんにはふつうに、燻製にするのでくださいって言ったら……くださいましたけど」
「……本当か?」
ゴーシュは、苦虫を噛み潰したような顔をした。
ぶつぶつと文句を呟く。
「あんにゃろめ、おれが言ったときにゃ『ダメですっ』って返したのに……」
ゴーシュは頬杖をついたが、その表情を和らげた。どこか、こそばゆいように、負けを楽しむ顔だった。
薄く香る煙は、サクラの色を乗せて、そんな二人のあいだをやさしく漂っていた。
◇ ◇ ◇
しかし──その日、四月三日の夕刻。
ふもとの村から、一騎の憲兵隊員が伝令にきた。
初めに応対したのは、ジュノだった。
マールムを通して、昼寝中のゴーシュに繋いでもらう間、伝令の憲兵は、母屋の馬繋ぎで下馬したきり、ジュノに一言も発さず、また目も合わそうとしなかった。
ジュノの胸の奥に、また、小さな不安が漂いはじめた。
(……いずれにしても僕の素性のことで来たに違いない)
憲兵隊員の黒馬に、水をやりながら、彼は様子をうかがった。
あれほど穏やかだった空気が、夕暮れという陽射しの角度ひとつで様変わりしていく。
砦の赤土に伸びる憲兵の影が、どこかジュノの心に隙間風を感じさせた。
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次回は、明日12:00に公開予定です!




