03.子犬の中の父
空気が一瞬止まったような感覚に襲われ、僕の心臓がドクンと跳ねる。
これは…何だ?
頭を打ったせいで、幻覚を見ている?それとも夢?
胸の奥からじわじわと冷たい不安が滲み出て僕を包み込む。体の力が抜けそうになりながらも、目の前の小さな子犬から目を離せなかった。
「元気だったか!?」
「大きくなったな!」
子犬は容赦なく何度も話しかけてくる。
パニックになり、心臓が早鐘のように打ち始めた。
また気を失ってしまうかもしれない――
焦りで手足が震える。
「お母さんは!?元気か!?」
次々と声が続く。耐えきれず、僕は両手で耳を押さえた。
もう何も考えたくない、何も聞きたくない。
力の抜けた足で家の玄関へ向かった。
「あー!待ってくれ!歩、お父さんだよ!」
子犬は必死にぴょんぴょんと跳ねながら僕の後を追いかけてくる。
頭が混乱する。夢?幻覚?
周りを見ても、肌に感じる感触も、いつもと変わらない。
……じゃあ、なんで子犬が喋っているんだ?
玄関に辿り着いた僕は、後ろを振り返って子犬の様子を見る。意外と距離が離れていた。いったい何が起きているのか…。
子犬は歩くたびに「イテッ!イテッ!」と、盛大に転ぶ。やっぱり、間違いなく喋っている。そして、歩くのがとても下手みたいだ。よろよろしながらも前に進もうとする仕草が……とても愛らしい。つい心が和む。
「…ふふ」
この状況がなんだかおもしろく思えてきた。信じられないはずなのに、笑える。どうせ現実じゃないのなら、もう少しこの子犬と関わってみてもいいかも――そう思い始めた。
…心を落ち着かせて、ふらふらしている子犬をすっと抱きかかえる。
手の中で感じる小さな体の温もりに、一瞬戸惑いが走った。柔らかな毛の感触や、微かに震える体が、どうしようもなく現実のものだと告げてくる。
困惑している僕の気持ちをよそに、子犬は大きな瞳でじっと僕を見つめて、もう一度こう言った。
「お父さんだよ」
「…うるさいよ」
半分呆れながら、僕は目を細める。
玄関前の階段に座り、子犬をそっと地面に降ろす。無邪気な瞳で見上げてくるその姿は、本当に愛らしい。
「誰のお父さん?」
「歩のお父さんだよ!」
子犬はもどかしそうに足をペンッと地面を叩いた。どうやら本当に会話ができるみたいだ。
「僕のお父さんはね、もういないんだ。……それに、君は犬でしょ?」
僕はツンツンと子犬の胸をつつく。子犬のわりに意外と足は長くしっかりとしているけど、おぼつかなくて、僕が触れるたびにゆらゆらと揺れている。
「え? 犬?」
我に返ったように子犬は自分の体を見下ろした。
「えー!えぇー! えぇぇええー!!」
目をまん丸にして、信じられないものを見るように僕を見つめてくる。
……。
…まだ、僕を見つめている。
…うるさいよ、と僕は思う。
「じゃあさ、僕のお父さんだって証明してみせてよ。何か、知っていることを教えて」
「よし!任せとけ! まずは…歩はゲームが好きだ!」
子犬は自信満々に言う。
「まぁ、そうだね。ほかには?」
「嫌いな食べ物はキノコ、あとゆで卵の黄身が苦手だ!」
どんとこい、と言わんばかりに子犬は胸を張る。
ふと思う。
もし、気を失った影響で、子犬が喋っているように感じているだけなら――
「そうだ!僕が知らなくてお父さんだけが知っていることを教えて」
もし、自分の頭がおかしくなっているなら、子犬が自分の知らないことを話せるはずがない。自分で思い付いた作戦に、ちょっと誇らしい気持ちになった。
「歩が生まれたのは、2月13日」
それは僕の誕生日じゃないか。思わず子犬の頭にペシッと突っ込みそうになったけど、ぐっと手を抑えた。頭は大切だ。
「それは僕の誕生日だから、お父さんだけが知っている内容じゃないよ」
「あ、そうか。…くっ、ぶはっ!」
子犬は吹き出すように笑う。
「うーん、結婚記念日は9月14日。って言っても、歩は知らないかもな」
そう言って、子犬はしばらく考え込んだ。
「そうだ! お父さんの荷物、どこにある?」
何かを思いついたように、ぱっと顔を上げて僕を見つめる。
「うーん、どうだろう?2階の物置部屋にあるかもしれないけど…」
「よし、見に行こう!」
子犬は元気よく声を上げ、尻尾をぶんぶんと振った。
家の中に子犬を入れてもいいのか少し迷ったけど、まぁ、ちゃんと見ていれば大丈夫かと僕は玄関を開ける。
「うわぁ〜!懐かしいなぁ〜!あまり変わってないなぁ〜!こんなに広かったっけ?」
子犬は興奮したように家の中をキョロキョロと見渡す。 やはり歩くのが苦手らしく、チグハグな動きでコテンコテンとよく転んでいる。尻尾を振っている後ろ姿がとてもかわいい。
「はいはい、2階はこちらですよー」
「階段でっかぁ~…」
子犬は2階まで続く階段を見上げて、小さな声で呟いた。
「よいしょっ!」
ぴょんとジャンプをするように、前足を1段目の階段に乗せる。
「えっと…次は後ろの足か」
子犬は後ろ足を片方上げる。
…けど、届かない。反対の後ろ足も上げてみる。やっぱり届かない。
前足で階段にしがみついたまま、後ろ足を左右にパタパタと空を蹴っている。
その姿がかわいくて、いつまでも見ていられたけど、僕はそっと子犬のお尻を押して手伝うことにした。
「おっ、悪いね!ありがとう!」
子犬はお礼を言いながら、ゆっくりと階段を上っていく。
「はい、右、左、いち、に、さん、し…」
階段を上りやすくなるように掛け声をかける。
子犬はその掛け声に合わせて、少しずつ階段を上るのがうまくなっていった。
「はい、この部屋だよ」
子犬は部屋に入るとキョロキョロと周りを見渡し、これ取って、あれ取って、と僕にお願いする。子犬の言うとおりに、あれこれ荷物を開けていると、埃の被ったノートパソコンが出てきた。
「あっ!これだ!!」
子犬が叫ぶ。どうやら、このノートパソコンはお父さんのものらしい。
「歩、電源をつけてくれ」
僕は埃を払いながら、電源を入れた。
モニターが徐々に明るくなり、パスワードの入力画面に切り替わった。
そういえば、お母さんがパスワードが分からないと、とても困っていたっけ。
「歩、パスワードを入力してくれ」
「…え?」
僕は、息を呑んだ。このパスワードを知っているのはお父さんだけだ。
もし、このパスワードを解除できたら――。
「A、y、u…」
僕は子犬の言うとおりに文字を入力する。
一文字、一文字、慎重に。
指が微かに震える。
心臓の音が、どんどん大きく、頭の奥まで響く。
本当に…お父さん?
子犬が?
映画やアニメみたいな話だ。現実とは思えない。
でも、もし――。
そして、最後の一文字。
息を止めて、Enterキーを押す。
静寂が一瞬部屋を包む。
パソコンは僕が入力したパスワードを読み込み、ゆっくりとデスクトップ画面へ切り替わった。
僕が初めてランドセルを背負ったときに撮影した、懐かしい家族3人の写真がモニターに映し出される。
忘れかけていた思い出が胸の奥で脈を打つ。あの頃の香りが部屋に満ちたように、昔の笑顔や父の声が鮮やかに蘇る。押し寄せる涙が僕の喉を締め付け、涙が頬を伝って静かに床に落ちた。僕は堪らなくなってうずくまる。
「歩、大きくなったな。お父さんだよ」
子犬の声から父の温もりを感じて、胸がいっぱいになる。
「…うん」
子犬の小さな手が、僕の膝にそっと触れた。
僕の心が――これはお父さんの手だ、と告げた。




