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始まりの季節

 校舎を染める西日の光は、どこか切なく、それでいて温かかった。秋の夕暮れは、時間がゆっくりと流れているようで、実際にはあっという間に夜へと向かっていく。部活を終えた生徒たちの笑い声や、自転車を押しながら帰る人々の足音が、校門の外へと消えていった。世界は少しずつ静かになり、残された教室の窓辺にだけ、オレンジ色の光が柔らかく残っている。


結城日向は、そんな夕焼けに照らされる廊下を歩いていた。彼の表情は明るく穏やかだが、その眼差しにはどこか秘密めいた影がある。彼自身も気づかないまま、その雰囲気が周囲の誰かを惹きつけることがあるのだった。


ふと、廊下の先で鞄の中を慌ただしく探る人影が目に入った。藤崎美緒。落ち着いた雰囲気をまとい、同級生からは「大人っぽい」と評されることの多い彼女が、珍しく焦った顔をしている。


「どうしたの?」

声をかけると、美緒ははっと顔を上げた。夕陽に照らされたその瞳は、まるで琥珀のように透き通っている。


「…カギが、ないの。家のカギ。どこかに落としたみたいで」


言葉に宿る困惑と小さな不安。その仕草が少し可笑しくて、けれど愛おしさを含んでいるようで、日向は思わず微笑んだ。手に持っていた小さな金属の光を掲げながら。


「これのこと?」


美緒の目が大きく開かれる。彼女のカギは、教室の机の下にひっそりと転がっていたのだ。


「…あっ、それ! 本当にありがとう!見つからなかったら、帰れなかった…」

安堵と照れの入り混じった笑みを浮かべ、美緒は小さく息を吐いた。その横顔を、夕陽が一層やわらかく照らす。


校舎の影がだんだん長く伸び、空は赤から紫へと色を変えていく。遠くで運動部の最後の掛け声が聞こえ、それがやがて静寂に溶けていった。


「気をつけなよ。そんな大事なもの、簡単に落としちゃだめだ」

日向は冗談めかして言う。だが声は不思議なほど優しく、美緒の胸の奥に残る。


「…うん。気をつける」

小さくうなずきながら、美緒は窓の外を見た。燃えるような秋の夕空。その下で、二人の影が並んで伸びている。


校門を出ると、空はすでに赤から紫へと移ろい始めていた。夕焼けは街並みを柔らかく染め、並木道の影を長く伸ばしている。


「同じ方向だし、送ってくよ」

自然な調子で言った日向に、美緒は少し驚いたように瞬きをした。けれど拒む理由はなく、小さく「うん」と答える。その声は夕風にかき消されるほど小さかったが、日向にははっきり届いていた。


二人は並んで歩き出す。最初のうちは、靴音だけが規則正しく響いていた。通りを走り抜ける自転車や、商店街から漂う焼き鳥の香ばしい匂いが、秋の放課後らしい空気を運んでくる。


「藤崎さんって、普段は落ち着いてるのに…カギのこと、すごく焦ってたよね」

くすりと笑う日向に、美緒は頬を少し赤らめた。

「そりゃそうだよ。帰れなくなっちゃうんだから」

「まあ、そうだよな。…でも、ちょっと意外で」

「意外?」

「天然っぽいところ、あるんだなって」


美緒はきょとんとした顔で彼を見上げ、すぐに小さく笑った。

「よく言われるよ。それ、褒めてる?」

「もちろん」

即答する日向の声に、冗談めかした軽さと、不思議なあたたかさが混じっていた。


街の灯りがぽつぽつと点りはじめ、空には一番星が輝き出す。季節は確実に秋へと深まっていくのに、二人の歩調はどこか夏の余韻を残すように軽やかだった。


「結城くんは…」

ふいに美緒が口を開く。

「なんだか、不思議な人だね。明るいのに、ちょっとミステリアスというか」

「そう?」

「うん。だから、もっと知りたくなるのかも」


日向は足を止め、夕焼けに溶けかけた空を見上げた。言葉にするには少し照れくさい感情が胸に広がる。けれど、美緒の真っ直ぐな瞳を見た瞬間、彼の中でなにかがほどけていくのを感じた。


「それなら、これからゆっくり知っていけばいいよ。俺も、藤崎さんのこと…もっと知りたいから」


その言葉に、美緒は頬を染めて視線を落とした。二人の影は、街灯に照らされて並び、秋の夜へと続いていく。

今日初めて会って、初めて話しただけなのに、俺はもうすっかり藤崎さんのことが…

まだはっきりとしてないけど、きっとそうなのだろう



美緒の家の前に着いたのは、すっかり夕暮れが夜へと変わる頃だった。門灯の明かりがふわりと揺れ、オレンジ色に彼女の横顔を照らす。


「今日はありがとう、助かったよ」

そう言って微笑む美緒の表情は、さっきまでの慌てた姿とはまるで違って、落ち着きと大人っぽさを取り戻していた。

日向は「気にするなよ」と軽く返し、手を振って彼女の背中が家の中に消えていくのを見送った。


さっきは同じ方向だとか言ったけど、真反対の家までの道のりを歩きながら、胸の奥に不思議な温度が残っているのを日向は感じていた。冷たい秋風が頬を撫でるのに、その中心だけは妙にあたたかい。


──天然だな。

さっき口にしたその言葉が、頭の中で何度も反響する。普段は落ち着いていて、周囲から大人びた印象を持たれている藤崎美緒。その彼女が、家のカギを失くしただけで慌てふためき、子どものように表情を崩した。

そのギャップが可笑しくて、でも同時に、胸を掴まれるような愛おしさを伴っていた。


「…もっと知りたい、か」


彼女が言った言葉を思い出すと、足取りが自然と軽くなる。いつもなら何気なく通り過ぎる街灯の下や、商店街のざわめきさえも、今夜は妙に鮮やかに映った。


家に帰り、ドアを閉めた瞬間、外のざわめきがすっと遠のいた。狭い部屋の中は静かで、机の上には開きっぱなしの教科書や、未完成のノートが散らばっている。いつもの光景。けれど、今はどこか物足りなさを感じる。


ベッドに腰を下ろし、天井を見上げる。

思考が勝手に美緒の横顔へと引き戻される。夕日に染まった頬、少し照れくさそうに笑った仕草。

何でもない一瞬が、心に深く残っている。


──どうしてだろう。

自分はただのクラスメイトに過ぎないはずなのに。

それなのに、あのとき並んで歩いた影が、今も隣にあるような気がしてならなかった。


「俺…気になってるんだな」

口にした途端、胸の奥が熱くなる。確信と戸惑いが入り混じり、心臓が早鐘を打った。


窓の外には、もうすっかり夜の気配が広がっている。遠くの街の灯りが瞬き、秋の冷たい空気が世界を包み込む。

だが日向の部屋の中だけは、不思議と温度を帯びていた。

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