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『茜色に染まる心』

作者: 小川敦人

『茜色に染まる心』


夕暮れの西の空が茜色に染まるたび、野村隆介は胸の内が張り裂けそうになるのを感じていた。

六十七歳にして初めて味わう、この痛みのような、切なさのような感情に戸惑いを覚えていた。

東京の街並みは昼の喧騒を忘れたように静まり、ビルの隙間から見える空は、まるで自分の老いた心の内を映し出すかのように燃えるようだった。

十年前に妻と死別してから、隆介は仕事に没頭することで孤独を紛らわしてきた。

それは決して幸せな日々ではなかったが、少なくとも心が揺さぶられることはなかった。

しかし、今は違った。彼女と出会ったのは、老人福祉センターのボランティア活動だった。

渚菜緒子、六十二歳。年齢を感じさせない端正な顔立ちと、凛とした佇まいを持つ女性だった。

最初は、彼女の柔らかい笑顔と、控えめな話し方に何気なく目が留まる程度だった。

だが、活動を重ねるうちに、隆介は自分の心が少しずつ彼女に引き寄せられていくのを感じていた。

どこか憂いを帯びた瞳が印象的で、それが彼女の人生の一部を物語っているように感じられた。

しかし、彼女の左手薬指にはしっかりと指輪が光っていた。

その事実が、この歳にして初めて芽生えた恋心が、始まる前に終わっていることを示していた。

それでも、隆介の想いは止められなかった。

長年の公務員生活で感情を抑制することに長けていたはずの彼が、この歳になって、まるで若者のように心を乱されることに驚きを覚えた。

活動日の朝、彼女の挨拶がいつもより少しだけ優しく感じられただけで、その日一日が不思議と明るく感じられた。

廊下ですれ違う時、ふとした瞬間に彼女の視線が自分に向けられたように感じると、まるで高校生のように胸が高鳴った。

「こんな歳になって、どうかしている」と隆介は何度も自分に言い聞かせた。彼女には夫も子どももいる。

彼が入り込む余地などどこにもない。それでも、彼女の笑顔を見るたびに、その現実が彼の胸を切り裂いた。

六十七年の人生で、隆介はこれほどまでに誰かを想うことはなかった。

若い頃は仕事一筋で、結婚も見合いだった。

妻とは穏やかな日々を過ごしたが、今感じているような激しい感情とは無縁だった。

ある日、ボランティアの休憩時間に、彼女が夕陽を見るのが好きだと言ったことが心に残った。

その日から、隆介は活動の帰りに必ず公園に寄るようになった。ベンチに腰掛けて西の空を眺めながら、彼は彼女のことを想った。

「どうしてこんな歳になって、こんなにも苦しいんだろう」と彼は心の中で呟いた。

彼女の幸せを壊したいわけではない。

むしろ、その逆だった。彼女が家族と笑い合っている姿を想像するだけで、胸が痛くなるほど彼女の幸せを願っていた。

それなのに、自分の心の奥底には、彼女と並んで夕陽を眺める自分の姿を夢見る愚かさがあった。

年齢を重ねても、人の心はそう簡単には成熟しないのかもしれない。

隆介はその自己矛盾に苛まれ、夕陽が沈むたびに自分を責めた。

秋が深まり、空気が冷たくなってきたある日のことだった。活動の帰り道、彼女が珍しく一人で歩いているのを見かけた。

彼女は野村隆介に気づき、少し驚いた表情を浮かべたが、すぐに微笑んだ。

「お疲れ様でした」

「お疲れ様です」と隆介は答えたが、若い頃には感じたことのない、言葉が喉に詰まるような感覚に襲われた。

彼女が立ち止まり、ふと夜空を見上げた。

「星が綺麗ですね」

隆介も彼女の視線を追い、星空を見上げた。街の明かりにかすむ星々はどこか儚げで、それが彼女の姿と重なった。

「そうですね」と彼は応じたが、その言葉の裏に隠された想いが重すぎて、次の言葉を紡ぐことができなかった。

やがて、彼女は軽く会釈をして先に歩き出した。その背中を見送る隆介の胸の中に、言いようのない感情が渦巻いた。

若かった頃には想像もできなかった、絶望と希望が入り混じったような苦しさだった。

隆介は茜色の空を眺めた日々を思い出した。自分の感情は永遠に彼女に届くことはない。

それでも、この歳になって初めて感じた本当の恋心を、彼は大切にしたいと思った。

彼女に触れられないのなら、せめて彼女の幸せを願うことで自分の心を満たしたいと思った。

年を重ねても、人の心は若々しく、そして切なく揺れ動くものなのだと、隆介は身をもって知った。

ある休日、隆介は図書館で偶然手に取った本の中でカフカの詩に出会った。


『"大好き"と思う人がいることは幸せ。

どんなに離れていても、その人を想えば心は温かい。

大好きな人に会えることは幸せ。

会えるその日まで、頑張ろうと思えるから。

大好きと思える人に出逢えたことは幸せ。

"出逢えて良かった"と、心から思えたら、その出逢いは一生の宝物』


その言葉が、これまでの苦しみを優しく包み込むように心に染み入ってきた。

隆介は何度も何度もその詩を読み返した。そうだ、自分は苦しんでいたのではない。幸せだったのだ。

この歳になって、誰かを「大好き」と心から思えることそのものが、かけがえのない贈り物だったのだ。

菜緒子さんに出会えたことは、決して不幸なことではなかった。

むしろ、この出会いによって、隆介は人生で初めて魂の震えるような真摯な愛情を知ることができた。

たとえその想いが永遠に届かないとしても、彼女という人を知り、このような感情を抱けたことは、紛れもない幸せだったのだ。

活動日、いつものように菜緒子さんの柔らかな微笑みに接するたび、隆介の心は温かさで満たされていった。

以前のような切なさは、静かな喜びへと昇華されていった。彼女が存在することへの感謝が、苦しみを包み込んでいく。

「大好きな人に出会えて本当に良かった」という想いが、これまでの煩悶を静めていった。

隆介は初めて、この恋を誇りに思えるようになった。この歳になって、これほど純粋に誰かを想える自分を、密かに誇らしく思えるようになった。


冬の足音が近づく中で、カフカの詩が教えてくれたように、出会えたことの幸せを心に刻む。

隆介は空を見上げ、小さな声で呟いた。

「ありがとう。出会えて本当に良かった。」

それは誰にも届かない言葉だったが、彼の中では確かな祝福の言葉だった。

その瞬間、彼の胸の中に、清らかな喜びが広がっていった。

人は年を重ねることで、愛するということの本当の意味を知るのかもしれない。

何も求めず、ただ相手の存在を祝福するような、そんな静かな愛の形を。

そして時には、一編の詩との出会いが、その真実に気づかせてくれることもある。

夕暮れの空が茜色に染まるたび、野村隆介はこの清らかな愛に出会えたことを、そしてその愛の本質に気づかせてくれたカフカの詩に出会えたことを、人生最大の宝物として胸に抱くのだった。

もはやそこに苦しみはなかった。ただ、深い感謝と静かな喜びだけが、夕暮れの空のように、優しく彼の心を染めていくのだった。


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