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今自分が持っているものについて

作者: さとだ

生きてきた年齢なりの体験、体感に基づいて、思ったことを書くのもいいのではないかと、気ままに最近考えていることを書いてみました。知識も体験のうちかもしれませんが、近年目まぐるしく変わるのでそこはこれからどうなるのでしょうか。

 体力づくりのために、少しであっても外を歩く必要性を感じている。

 健康にうるさいという程でもないが、かといって若い頃のように気にせずにいると、たちまちあちらこちらに不具合がでるようになった。


 これは人にもよるのだろうが、50の声を聞くとめっきり動きが緩慢になってきて、いざ張り切って俊敏に動こうとしようものならどこかの筋肉が悲鳴をあげて攣ったりする。

 年寄りの冷や水という言葉がきっちりと忍び寄っているのだからおそろしい。


 歩くことは全身の血行促進になる。肩こりが気になるときには腕を後ろに引き上げることを意識して歩くようにする。また、姿勢次第で股関節が不自由となるという情報を整体院で得たので、それを意識して歩く。

 腰痛を得て整体院のお世話になってみた私の状況はこうだ。

 内またでつまさきが内側に向いていると股関節が内転して固定してしまう。私はややその状態で半端に姿勢をよくしようと胸を張ってしまう癖があるのだ。すると反り腰という不自然な状態になり、結果チョコチョコと小股にしか進めない上に、腰の負担がすごく重くなるというのだ。

 なのでつま先をやや外に向け、股関節をゆるめ、腕をしっかり後ろにも振り上げし、胸をそらしすぎないように気を付けて肩をすぼめないよう自然に開き、ひざを意識的に上げて歩く。ひざは思ったよりも上がっていないから要注意である。私にとって背筋の伸ばし方はチンパンジーくらいのイメージをしている方が先生に褒められた。


 ただの歩き方の矯正のつもりでも、そうしていると案外大変で十分もしないうちに発汗し息もあがってくる。歩くということで普段の下半身の固まりをとり、下半身の血行を改善して心肺機能を上げることになるだろう。

 

 これは個人的な感想で体感なのだが、散歩をするのに公園を選ぶのだがそこに生き物がたくさんいて植物が植わっているからなのだ。これは田畑の広がるところで走り回って育ったせいか、若い昔から、木々のあるところ、芝生のあるところ、山などへいくと心が楽になるように感じていたからだろうか。

 海が近くにないので山、川などになるが、主にそこの植物の生命力に触れているのが、派手ではないが無理ない程度に元気づけられる気がするのである。

 もちろん、生き物が死滅せずにいる地面も、見てもわからないが生命が沢山息づいている。そこは柔らかくて歩くにやさしい。

 私にとって生命が息づいているということは、そこでものの受け渡しが大量にできているということであり、そこで私も呼吸をすることで一時的にだが循環のひとつにさせてもらうことがよいような気がするのである。

 人間、不安に駆られると物をためこんだりするが、少なくとも体は流れず循環せず一方的にため込むことは、滞り、結果どこかが詰まることのように思う。漢方ではたしか滞ることはよろしくない状態だったと記憶している。


 息を吸い、吐くという行為も、地球上に生を受けた生命体のひとつとして、ものを受け取り、渡してエネルギー循環の必要とされる一部になるということで、生き物としてより自然なことをあたりまえに身体にさせてあげる状態になれる気がする。

 現在人がたくさんいるところでは人は息をつめているような感じがしている。木造でない建造物の多いところはものを通さず循環させないのではないだろうか、澱んでいるところが多い気もするし、急流のようにただ表面を流れてしまう感じもある。その緊張感は、肩こりや頭痛といった形で私の体にも影響してくる気がするので、私は滅多に人ごみに行かず、時間があれば木々の多い、地面のむきだしなところ、花のたくさん咲いているところにいきたくなるのだ。人混みに行く時は緊張感を超える好奇心と興味がわいている時に限ると思っている。


 海はなお強力で、海を渡る風はより遠くの空気をも遮ることなく大量に運んでくれ、波の音は自然の流れの音を大音量と振動で伝えてくれる。たくさんの生き物の香りに安心する。

 そういった自然の営みとつながりの中に身を置くことで、なにやら自分の体の細胞までが影響を受けてまわりに同調し自然な状態にもどろうとする気すらしている。昔なら労咳を患ったら空気の良い田舎で静養するなどとよくものの本に書かれていたけれど、私は全体的に気鬱が重症になったと思ったら海を見に行く。今は残念ながら街中でせめてもと公園で歩いている。


 そういえば、昔は緑が目にやさしいとさかんに言われていたが、今はどういうことになっているのだろう。


 ガラス越しでなく直接に太陽の光を浴びるとビタミンDができる、という。ビタミンDは骨に寄与するビタミンである。

 また日を浴びることでセロトニンが増え、体温が上がり、免疫にもよいらしい。

 セロトニンは精神のバランスをとり、安定させる物質で、不足すると攻撃性が増え、うつやパニックが増えるそうだ。そしてセロトニンが出ることでメラトニンにも影響し、結果安眠効果があるという。


 外に出て日の光を浴びることは、人間が生き物である以上当然のようだが適度であればいいことが多いようだ。しかし、大人になってしまうと気持ちがよいかどうかなど考えることもなく、労働のついでにしか日を浴びる機会もなく、赤ちゃんや老人でなく自分の体と心のために意識して日を浴びに行くなど発想すらなくなっていた。

 

 しかし、長年世話になっているのにあまり大切にせず、むしろ無理をかけてばかりいたこの身体。冒頭述べたように、気が付くと思うようにはついてきてくれなくなっている。

 意識してよいことを取り入れて、できるだけ世話をしようという殊勝な気持ちになってきたのは、長年の疲労と日々負荷がかかっていることをますます重く感じていることからくるかもしれない。救いは少しの働きかけがまだ、すぐに効果が感じられてきたりもすることだ。


 自分を感じ、いたわりをもって働きかけると応えてくれる、意図したことにきちんと反応がある、そういう連鎖は回りまわってメンタルにもよい傾向を生むような気がしている。


 世に気に病むことは多々あれど、仕事をするにせよ何を思いつき行動するにせよ、腕や足が思うように動き、病いの苦しみや痛みで頭が占領されることなくものを感じられるというありがたい状態ありきのことだ。ぐだぐだ悩めるのも、この身体が曲がりなりにも元気でいてくれるからこそである。

 しかしこういったことは皮肉にも、病気におかされ入院し手術などして、長期間思うに動けなくなり、再びもとのとおりに復活できるかわからない、ということを体験して、ようやく何もない日々がつくづく幸せであったと思うものなのだ。そうなるまで、動ける体という、宝物を手にしていてもそれと理解できていない。


 この地上で何するにせよ、何を体験するにせよ、この身体がもちこたえられる時までの期限付き。

このことを真面目に考えてせめてもう少し向き合い、大事にしていこう、とつくづく思うこの頃なのである。




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