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【三崎宏人視点】
「失礼します」
消毒液の匂いがきついこの場所に訪れるのは初めてのことだ。入ってすぐ右手に長椅子があり、奥の方にはベッドが2台、横並びで置かれている。カーテンは開けられており、そこに寝ている人はいない。
「いらっしゃい、どうしたの?」
回転椅子ごと体をこちらに向けて、柔和な笑みを浮かべながら話しかけてきたのは、養護教諭の瀬野先生だ。下の名前が星娘であることや、高い包容力を有していることから通称聖母先生と呼ばれている。
「体調がすぐれないので少し休みたくて」
「そっかそっか、お疲れ〜。そこのベッド使って良いよ〜」
「ありがとうございます」
先生の目線の先にあった、2台のうちの左側のベッドに向かい、上履きを脱いで横になった。布団を被る。
「ちょっと5時間目の終わり際は出るけど、それまでだったら居るから、何かあったら声かけてね〜」
「はい、ありがとうございます」
カーテンがベッドを囲うように閉められる。僕はその時、世界からこの空間だけ切り取られたような感覚を覚えた。
初めてサボってしまった。しかも嘘をついて。心臓が高鳴ってしまう。今までどこに隠れていたのだろうか、今更になって罪悪感が湧いて出てきた。二人の先生にもクラスのみんなにも申し訳ないな。いや、それについてどうこう思ったところで致し方ないので、ひとまずはこれからについて考えつつ休もう。
……
×
……
「ヒロ、大丈夫?」
天使のそれと聞き間違うほどの、甘く囁くような美しい声で僕は目を覚ました。いつのまにか眠っていたらしい。頭上の時計は14時11分を指している。5時間目を丸々睡眠に充ててしまったようだ。
声から察するに、カーテンの向こうにはあまり顔を合わせたくない彼女がいる。きっと先生に聞くなりなんなりして、来てくれたのだろう。
「大丈夫、寝たら大分良くなったから」
「そっか、良かった〜安心したよ」
不意にカーテンが開けられ、僕と梨穂はバッチリと目を合わせた。僕は思わず目を逸らして、起き上がって座る。
「……その……さ」
そのまま彼女はベッド横に置かれた長椅子に腰掛け、指を掻くようにいじりながら、何かを話そうと試みていた。
「……」
「さっきの話……聞いてた?」
予測の範疇から外れた話を切り出され、僕はどう反応すればいいかわからなかった。彼女はその釈明をしに、ここに訪れたというのだろうか。
「……」
黙りこくっていると、僕のそれを肯定と受け取ったのか、梨穂は頭を下げた。髪と衣服とが擦れ合う音が聞こえるほど、保健室は静まり返っている。
「……ごめん、あんなの本心じゃないの。誤魔化しただけで」
「本心じゃないって、何が?」
静まり返った部屋に、少し怒気を孕んだ僕の声が響く。ああ、言いたくないのに。僕は決して彼女を詰問したいわけじゃない。梨穂が僕を好きじゃないのは分かってて、分かりきってて……。
「好きになるとかあり得ない、なんてのは……」
しかしどれだけ考えたところで、冷静になれようはずもなかった。
「……じゃあ!!!」
「……っ!」
僕はそこで、手遅れになった後で我に返った。感情の制御がおぼつかないまま発した声は、理性的と言えぬ程大きく、彼女を怖がらせたことに気がついた。さっきは彼女を思って行動したのに、彼女を前にするとどうしても冷静さを欠いてしまう。
「……ごめん、大きな声出して」
彼女からの返事はなかった。僕はベッドから降りて、上履きを履いて、卑怯だと自覚しながらその場から逃げようとした。
「待って!」
「……」
彼女は僕のシャツの袖を掴んだ。
「一つだけ聞かせて。ヒロは……川嶋さんと付き合ってるの?」
「……まだ、付き合ってないよ」
掴まれた袖を強引に振り払って、教室に戻る選択肢もあるにはあったが、僕は生憎中途半端に偽善者らしく、そんな行動を取るような薄情な人間になることを躊躇った。
「え、まだ、って……?」
「質問は一つだけの筈だよ。僕、もう行くね」
「そ、そうだけど……」
歯切れ悪く食い下がってくる彼女に、僕は面倒臭さを感じてしまった。
「……僕は大前提として、恋愛感情抜きにしたって、梨穂のことを家族のように、大切に、大事に思ってる」
僕はありのままの本心を彼女に告げることにした。僕の真後ろに彼女はいるので、その表情がどんなものか知ることはできない。
「……だけど、今の僕には分からないんだ。梨穂がどういうことを望んでるのか、どういうことを願ってるのか」
「……!」
「ごめん」
僕は袖を掴む手を優しく解いて、スタスタと歩き出して、保健室を後にした。僕は何がしたいのだろうか。好きな人を傷つけて、その上反論できないようにその場から逃げ出すなんて、最低の行為だ。
自己嫌悪に陥りながら歩く廊下は、普段の何倍も長く感じられた。