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後悔というのは往々にして、取り返しのつかない状態になってから感じ始めるものだ。見通せたなら事前に対策をうつなりできるのだが、いかんせんそいつは都合が悪くなってから出現する。
「おはよー」
「おはよう宏人。ちゃっちゃと朝食、食べちゃってね」
「うん」
翌日の朝、リビングにいる母さんが弁当を作りながら僕に言う。適当に返事だけして、少し焦げ目のついた食パンに齧り付いた。
牛乳を飲みつつ、テレビを見る。朝っぱらから暗いニュースが飛び込んできている。あまり見ていたくもないので、チャンネルを変えた。
その時、インターホンがなった。こんな朝から誰だろうかと思って立ち上がろうとしたが、母さんが出るらしく、僕は素直に腰を下ろした。
「あら、久しぶりじゃない!元気にしてた?あ、もしかしてお出迎え?宏人!」
「え?」
しかし、再び僕は立ち上がることとなる。慌てて玄関に行くと、
「お、おはよう」
「……な、んで……?」
胸の辺りで控えめに手を挙げながら、僕に挨拶してきたのは他でもない、中谷梨穂その人だった。
×
昨日の言葉がまだ、頭の中で疑問符を形成する。ふわふわとして掴みどころのないそいつは、分かりそうになった途端にまた姿形を変えて、僕の手には負えなくなってしまう。
その疑問符の原因が隣を歩いているせいで、僕の頭の中はより一層こんがらがっていた。
母さんがせっかくだし二人で登校しなさいよ、と余計な気を遣ったせいで、僕は変えたチャンネルを見ることも叶わないまま、気まずさ立ち込める道を歩かされている。
「……昨日のさ」
「っ……うん」
どうにも疑問符が、痛すぎない程度の口内炎のくらいに気になってしまうので、僕は切り出した。
「あの言葉……どういう意味?」
「どういう……意味って……」
あの言葉。『モヤモヤする』という僕にとって—彼女にとっても恐らく—不可思議な言葉の破壊力は凄まじく、また遅効性を伴っていた。おかげで僕の思考力は著しく低下している。
「……」
「……」
昨日のやりとりをなぞるかのように、二人の間に沈黙が生まれる。この質問には答えてくれなさそうなので、僕はもう一つの疑問を彼女に問う。
「……じゃあ、今日に限って僕の家に来たのはなんでなの?」
「そ、れは……」
きっと一般論で言うなら、幼馴染みだからというその一言で理由づけができてしまうのだが、僕らの間にはその理由づけができない理由がある。
振って振られた関係。それがまるで、逆位相の波をぶつけたみたいに、その一般論の存在を打ち消していた。
「自分がやってること、分かってる?」
梨穂がしているのは、振った相手の心の傷を更に抉る行為だ。今更好意的な態度を取られたって、惨めになるだけだ。
「……分かってる……ごめん……でも……!」
何かを言いたげに、梨穂が声を大きくした時。
「宏人、おはよっ!」
「川嶋さん……」
背後から声をかけられたので梨穂と二人して振り返ると、そこには川嶋さんが立ちすくんでいた。
「あ、中谷さんもおはよう!」
「……おはよう」
川嶋さんが笑顔のまま、梨穂に挨拶をし、梨穂もそれに笑顔で返す。顔は笑っているけれど、二人とも僕に話しかける時の声とは、僅かに音波の周波数が違う気がした。
「えっと……」
「……ごめん、用事思い出したから先行くね?」
僕がその場しのぎの枕詞を呟くと、梨穂はそう言い残して、足早に学校へと向かった。無言でその背中を見つめること数秒。
「……私たちも行こ?」
「……うん」
川嶋さんに促され、僕は再び歩き始めた。彼女が横にいると、色んな男子の視線がこちらに向けられているのが分かる。流石、学年一の美貌を誇る方だ。
しかし、梨穂の用事とはなんだろうか……なんて誤魔化すような疑問を抱いたが、きっと彼女がそう告げた理由は明確で、僕は気づかないフリをしたいだけなのだろう。