エピローグ-7
夏休み。それは学生が心待ちにするものであり、それぞれの経験をその体と心に刻む至上のひと時である。本日はいよいよ様々な事件があった一学期を締めくくる終業式であり、今日で高校とは一ヶ月ちょっとの間おさらばである。
「ん……」
目覚めのいい朝である。日差しが窓から差し込んで、雀が電線で戯れあってちゅんちゅんと鳴いた。伸びをすると、それに呼応するように体がポキポキと鳴った。時計は9時12分を指している。素晴らしい朝だ。全くもって、素晴らしい朝である。
……遅刻しているらしいこと以外は。
×
どうやら両親が朝早く家を出たことが災いしたらしい。リビングの掛け時計は残酷なまでに秒針を一秒単位で稼働させ続ける。いっそのこと時が止まればいいのに。いや本当に時が止まったなら自分自身含め、この世界そのものが停止するだろうから、止まったことにすら気づかないか。いや、そもそも時間というのは人間が作り出した概念で……
ああ、いつもの悪い癖が出た。そんなことを考えている余裕はないので、頭を振って洗面所へと直行した。
歯を磨いて顔を洗いながら寝癖をなおして制服に着替え、最低限の人権を確保してから鞄を背負ってパンを口に家を勢いよく飛び出した。鍵をかけて、ふと左隣の家屋を見ると、ドアが開けられており、僕と同じように焦った様子の一人の少女がいた。バッチリと目があったあと、
「……おはよう」
「おはよう……梨穂も?」
少女、中谷梨穂もどうやら遅刻したらしかった。彼女は普段より髪を荒く結んでおり、後れ毛やアホ毛が目立つ。どことなく眠そうな眼をしており、まだ夢現な感じだ。彼女は精一杯抑えた欠伸を一つしたあと、
「……い、いや、別に寝坊とかじゃないし……ただ起きるのが遅くなっただけで」
「人はそれを寝坊と呼ぶのです。とやかく言ってないで走るよ」
「……ふぁーい」
僕は梨穂の家の前まで小走りで行き、手を差し伸べて眠そうな彼女を急かした。欠伸混じりの返事が返ってきた。
×
午前9時頃の蒼穹に雲は少しばかりあり、晴れ7割、雲3割くらいの青空だった。これが休日だったなら心地よい気分になって、読書に耽ることもできたろうに、今日が平日だったせいで息を切らして走っている。
七月の朝ということもあり気温はかなり高い。予めお互いに夏服は着てきたが、それでも汗は伝ってしまう。
しばらく走ったのち、僕たちは赤信号で止まることを余儀なくされた。立ち止まっている時間などないが、法を犯すほどの事態でもないので仕方なしに小休止をすることにした。
ワイシャツの胸ぐらの辺りをバサバサして、暑さから逃れようとした。しかし東の空に太陽が煌々と存在する限りそうもできない。
「はあ……はあ……あっつ」
「現在9時22分……着く頃には始まっちゃってるなー……」
僕は息を切らして気温への文句を言いつつ、左にいる彼女を見た。ようやく思考が冴えてきたらしい。首の辺りの後れ毛は汗で肌に張り付いていた。普段見ることのない姿を見られて少し嬉しかったが、流石にこれを言うと気持ち悪がられるだろうから口には出さない。
それよりも、僕は朝から訊きたかったことを問うてみた。
「今日、なんで寝坊したの?」
「……えー、っと……」
「……」
問い詰めるような視線を向けると、彼女は最初こそ黙っていたが、その後堪えきれなくなって観念した。
「分かった!分かった言うよ!……夏休み、宏人と何しようかって考えてたら夜の3時だったの……」
「……っ!そっ……か」
その理由は想像していたものより可愛らしく、また僕にとって嬉しいものであった。僕も思わず口元を手で押さえて、視線を外方へ逸らした。
「……あれ、もしかして嬉しかったりしたの〜?」
「べ、別に……」
ああ、嘘をついてしまった。本音を言うとめちゃくちゃ嬉しい。しかし生憎それを愚直に伝えられる肝っ玉の太さは持ち合わせていない。この前の一件は結果的に伝えてしまっただけで、本来僕は恥ずかしがり屋な性格をしているのである。
パッと、僕らの道を塞いでいた歩行者用信号機が赤から青に変わった。
「あ、青信号になった!走るよ!」
「う、うん……」
すっかり立場が逆転し、梨穂は僕の手を取って走り出した。サイダーのような清涼感を含んだ風が優しく僕らに吹いた。彼女のサイドテールが風に靡いて、空間と僕の心とを掻き回した。




