エピローグ-5
屋上へと続くドアは閉められていなかったので、その陰に隠れて様子を窺うことにした。
「ここなら会話がギリギリ聞こえる……かな?」
「そ、そうだね……」
僕は動揺しつつ相槌をうった。先ほどの密着具合を想起させるような状態にあったからである。ドアの手前に梨穂が居て、そのさらに後ろに僕がいる。顔の距離は十数センチ。何をとは言わないがしようと思えばできる。しないけど。
「……」
閑話休題。少し風の吹く屋上には髪を靡かせる少年少女が立ちすくんでいた。向かい合ってはいるが、視線を互いには向けず、フェンスだったり、空だったりに向けている。そわそわと、どこか落ち着かない雰囲気である。
微風がフェンスをキシキシと揺らす。学校の周りに植えられたイチョウの木の葉擦れの音が辺りを優しく包んで、空には絵の具で描いたような群青が彼方まで縹緲と続いていた。
風が止んで、二人は息を呑んだ。否、呑んだのは生唾だっただろうか。いずれにせよ、もうその瞬間が来るまで時間の猶予などなかった。
築かれかけていた静寂の空間に切れ込みを入れたのは瀬上くんの方だった。
「来てくれてありがとうな……」
「……話っていうのは?」
川嶋さんは何かを察しているようだった。次にはその瞬間が来ると察した僕らは、先ほどの彼らよろしく息を呑んだ。
「俺さ……川嶋のこと、好きになったんだ」
「……うん」
そうして彼は、自分の思いの丈を告げた。僕が今まで見てきた中で、間違いなく一番真剣な表情をしていた。対する川嶋さんは動じていなかった。いや、少し満更でもなさそうな様子だった。百戦錬磨の彼女ならば、よくある告白のうちの一つのはずだが。
「〜!言った!言っちゃったよ宏人!」
「静かに!バレるから!」
「あ、そっか……えへへ」
……前にいる梨穂が少し五月蝿い。可愛いけどちょっと今は黙っていようか。彼女は苦笑いを浮かべながらサイドテールをいじっていた。可愛いけど以下略。
再度、二人の方へと視線を向ける。
「……俺の、彼女になってほしい」
「……」
風がさーっと吹いて葉っぱが揺れ、カラスがバサバサとどこかで、どこかへ羽ばたいた。まるで環境そのものがどよめいたかのようだった。その願望は、傷心中の彼女の目にどう映っただろうか。僕らはただその行く末を見守ることしかできない。
瀬上くんの手によって壊されかけた静寂が、切れ込みの縫合手術を終えたらしく、再び二人の間に居座った。無音という音が耳を劈くかのように、そこに響く。
「……」
まだ、川嶋さんは言葉を発さなかった。右手でセミロングの髪を耳にかけ、瞬きを数回。それから息を吸って……返答を拵え終えたようだった。
「……私ね、すごく君と付き合いたいと思ってるの。颯星は、とても良い人だから」
「っ!……」
瀬上くんも、僕らも、それを聞いた瞬間喜びかけたが、彼女の発言にそれとなく含まれた逆説のニュアンスを悟って、それが早計であったことに遅ればせながら気がついた。
辛そうな顔をして、川嶋さんは続ける。
「でも……私の心にはまだ別の人が完全に消えずに居て……こんな状態で、優しい君を一個人的な感情で振り回すのは、あまりに不誠実だと思うの……だから」
「発言を遮ってごめん。俺もいいかな?」
僕が川嶋さんの発言で胸を痛める中、決定的な一言を言われる前に、瀬上くんは自分も言いたいことがある、と言わんばかりに口を開いた。
「つまり、俺に申し訳ないっていう理由で、川嶋は俺を振ろうとしてるわけだ」
「……そう、だけど」
「本当に申し訳ないと思ってるなら、どんだけ不誠実でもなんでも良いから、俺の気持ちを受け取ってほしいんだ」
その言葉には、覚悟だとか必死さだとか、あるいは冷静さを欠いたエゴイズムだとか、様々なものが含有されていた。
それを聞いた川嶋さんは物事を考えるように視線を彼方此方へとやり、やがてそれを地面に向け、口を開いた。
「……一つ、訊いてもいい?」
「え?」
「……私のどこを好きになったの?」
間違えて仕舞えば、相手に拒絶されるその質問。その質問の意味するところを、僕は何となく察した。川嶋さんの嫌う下心を、瀬上くんが持っているかどうか、確認しにかかったのだろう。無論、彼女の中で瀬上くんは先ほどの発言からとても好印象なのだろうが、どうにかこうにか断る理由を作りたくて……と考えれば、その質問をした理由が出来上がる。
「……」
「答えられないの?」
瀬上くんは黙秘していた。質問への答えを頭の中で作り上げている真っ最中なのだろう。残酷なまでに、川嶋さんは待ってくれなかった。
「答えられないなら……」
そこで漸く、瀬上くんは口を開いたが、そこから告げられた文言はその場の時を止めた。
「……勉強してるのに、ちょっと頭が悪くて思い悩むところ」
「……は?」
(は?)
川嶋さんと同じく、僕も梨穂も疑問、困惑等をその一文字に込めて、念として瀬上くん、いや瀬上に飛ばした。アホー、アホーと鴉が夕焼けに叫んだ。緊張感もへったくれも無くなってしまった。張り詰めた糸がだらんと弛緩するなんていう騒ぎじゃない。張り詰めたそれごと空の彼方へ吹っ飛んでいった気分だ。あの男は何を言っているんだ。
「あと、それでいて頭いいふりをしてるところとか、運動はできるのに球技がてんでダメなところとか、弁当の中に好きなおかずが入ってると笑顔になるところとか……」
「ま、待って!あと何個言うつもり!?」
さしもの川嶋さんも困惑しているようだった。しかし瀬上くんは止まらない。
「余裕で百個は超えるよ。あと、休み時間のやることがない時にシャーペンを机の上に立てようと試みるところとか、一日の時間割のなかに嫌いな教科があると如実にテンションが下がるところとか、実は幽霊を信じてて怖がりなところとか、サンタを去年まで信じてたところとか……」
「も、もういい!ストップ!」
瀬上くんの変わった好きなところを通して川嶋さんの尊厳がどんどん破壊されてしまっている。やめて!川嶋さんのライフはもうゼロよ!
彼女は限りなく顔を赤くして瀬上くんを静止したのち、ある程度真面目な顔をして口を開く。
「……もっと、あるでしょ。私を好きになる大きな理由」
大きな理由。彼女の言うそれは入学から学年中の男子の話題を掻っ攫ったその美貌であろうが、瀬上くんの思うそれとは大いなる乖離があった。
「……?うーん……階段の最後の一段を必ず一段飛ばしで降りるところ……?」
「……もういい!馬鹿!!!」
彼女は怒ったように見えたが、その次には正反対のことを述べた。
「そんなに私のことが好きなら付き合うわよ!!!その代わり、私が浮気したって文句は言わないでよ!!!」
それを聞いた瞬間、瀬上くんは目を見開いてガッツポーズをした。
「……っ!!!よっしゃあああああ!!!」
少年の嬉しさのあまりの咆哮が、遥々と続く大空を揺らした。
あと数話なんです…!多分…!