エピローグ-2
夕暮れの残滓が窓の外に映る時分、桃色の掛け布団が載った可愛らしいベッドに座る彼女は不機嫌そうにスマホをいじっていた。
「へー、瀬上くんと会ってて帰りが遅くなって、大事な彼女を長らく待たせてたわけだー。ふーん」
ドアを開けた僕に一瞥もくれず、スマホをいじり続けて、冷たい目をして彼女は言った。
「分かりやすく拗ねないでよ」
僕は梨穂の部屋に訪れていた。ここ最近はこれが日課になってしまっている。毎日学校が終わったら互いのどちらかの部屋に訪れては、ただただ共に過ごすというだけの時間を味わっている。不純なことは何もなく、僕らの間にはただ安らぎのみがある。
甘い匂いが着々と、互いの部屋を蝕み始めていた。決して不快なものではなく、寧ろ心地よいものだった。僕は愛する人と毎日過ごせる幸福感を十分すぎるくらいに味わっていた。
梨穂はスマホを置いて立ち上がって、僕の前まで来た。
「……ん」
「……うん」
何かを示唆するかのように、梨穂は僕に向かって少しだけ顎を突き出してきた。それの指し示すところは一つしかない。僕は首肯して、その華奢な肩に腕を回す。
……先程の記述に一つ誤りがあったかも知れぬ。不純なことは何もないと言ったが、一つくらいある。
「……ん」
というのもこの通り、唇を重ねるのが常態化しつつあるのだ。最初にした時は作者があれだけ文章に拘って書いたというのに、こうも日常に溶け込んでしまうと、何だったんだあれはとなってしまう。
良くない……実に良くない……けしからん……そう思いつつも決して抗うことなどできない。
しかしそれ以上の行いはしていないのだから、そういう点では純粋といえる……うん……少し重ねる時間が長いかも。ちょっとなんですか舌を入れてこようとしないでください。僕が押さえつけてる理性が暴発するから。
「……ぷはあ……なんかどんどんキャラ変わってない?」
「そっちこそ。前だったら抵抗してたはずだよ?」
そう言って彼女はニカっと笑った。悪戯っ子のような笑みである。抵抗などできようはずもない。好きな人に求められてそれを断る空け者がどこにいようか。
「……大好き」
「……僕も」
せめてマンネリズムに陥らないように、節度を持ってこの恋の寿命を伸ばしていこう。
×
閑話休題。実は僕がここに訪れたのには理由がある。一時の逢瀬を楽しむために来たのではない。それはそれとして唇に宿る感覚は名残惜しいが。
「そ、それは何ともいえない状況だね……」
「でしょ?僕、聞いててすごい気まずかったもん」
ことのあらましを説明すると、梨穂は同情してくれた。先ほどのスイッチが入った状態とは大違い、包容力のある優しい顔つきをしている。
彼女は先刻と同じようにベッドに腰掛け、僕は床に敷かれた座布団に座っている。
「私もとやかく言えるような立場じゃないけど……瀬上くんってめっちゃいい人だし、川嶋さんとの相性良さそう……だとは思うんだけど、当人が傷心中だからなあ……」
「……うん」
「……」
傷つけた張本人である僕ら二人は少し後ろめたい気持ちになった。いや、きっと僕ら三人の間には、傷つく覚悟も、傷つける覚悟もあったはずだ。それらの覚悟なしに人に恋をして、そこからどうにかなろうなど不可能に近いから。
……と、それっぽい理屈をだらだらと述べたところで傷つけたのは事実であり、しかし彼女の願いを叶えることなどできないから、少しでも幸せになって欲しいと祈るのが一番だろう。
そこで不意に、
「……なに?」
「……なんとなく」
考えていると、僕は後ろから細い腕を回され、抱きしめられた。甘い温もりが全身を包んで、幸せという幸せを感じた。鼓動が早くなる。キスとは別に抱擁もまた、僕の心を昂らせるのに十分な威力を有していた。
梨穂は彼女になってから、甘えん坊な性格に拍車がかかっている。可愛いので無問題。無問題どころかもっと欲しい。
「……改めてさ、大好き」
「僕も」
僕は振り返って、同意して、そして……
「梨穂。夕食ができているぞ」
「!?あ、うん!」
こんこんとノックが2回。梨穂のお父さんの声がその向こうから聞こえた。僕らはその瞬間、ばっと離れて、梨穂は慌てた様子で返事をした。危なかった。彼が来なければ今頃きっといくとこまでいっていた。
「宏人くんは食べていくかい?」
「あー、いえ!母が作っていると思うのでそろそろお暇します!」
「分かったよ」
重厚感のある渋い声が聞こえ、足音がスタスタ。どうやらドアの前から立ち去ったらしい。
「……ふふ」
僕らは目を合わせて笑った。無論先刻のような雰囲気に戻るなんてことはない。今は恋人というよりも、幼馴染みという肩書きの方が合うような、そんな空間だった。
「……それじゃあ、そろそろ帰るね。また明日」
「……うん。またね」
僕はそのまた違った安らかな空間を仕切っていた引き戸を開けた。空間は一体となって、甘い匂いと廊下の匂いとが混ざり合った。
軽く手を振って、再度ドアを閉めた。廊下を歩いて階段を降り、玄関に向かう途中、
「宏人くん、ちょっといいか?」
「?はい」
梨穂のお父さんである、穂貴さんに呼び止められた。手入れがなされた口髭が特徴的なダンディーな人だ。穂貴さんと、梨穂のお母さん、真梨さんには昔から色々とお世話になってきた。いわば第二の親のような存在である。
「最近、梨穂は毎日楽しそうでね。以前も快活な子だったが、今は前よりもっと笑うようになったんだ」
穂貴さんは嬉しそうに、慈愛の笑みを浮かべて言った。中谷家は真梨さんが夜勤ということもあり、どちらかといえば穂貴さんの方が、梨穂と沢山触れ合ってきたらしい。それ故に、思うところも沢山あるのだろう。
「それはそれは、良かったです」
「何を他人事のように。君のおかげだよ、宏人くん」
「……もしそうだったら嬉しいです」
それが本当だとしたら、これ以上幸せなことはない。彼氏冥利に尽きるというものである。
「……娘を、頼んだよ。君なら安心して任せられる」
任せるというのは即ち未来を託すと考えて差し支えないだろう。僕は無論嬉しくもあったが、それ以上に自分に押しかかった責任を感じた。何せ、そのお父さんから頼まれたのだから。
「買いかぶりすぎですよ……でも、何があっても、娘さんはお守りしますので」
少し言うのは恥ずかしかったが、本人に聞かれるわけでもないし、穂貴さんの信頼に真摯に応えるべきだと思ったからつい口にしてしまった。
「ははは、本人の前でそれを口にできるとは、君も肝っ玉の太い男だな」
「え?……あ」
本人、と聞いて、僕は穂貴さんの視線の先、僕の後方にある階段の中腹を振り返って急いで見た。そこには顔を覆う梨穂が微動だにせずに座り込んでいた。玄関まで見送りに来たかったのだろうか。
いずれにせよ、今の発言を聞かれたのはすごく恥ずかしい。穴があったら入りたい。なくても無理矢理に墓穴を掘ってそこで眠りにつきたい。
しかしもう聞かれた以上後に引くことなどできない。
「……うん、そういうことだから、何があっても守るから」
「っ!!!ばか!」
慌てた様子で彼女は階段を駆け上がって行った。前までなら怒ったのかと勘違いしていたところだが、今ならわかる。多分彼女は喜んでいる。喜んでいる…筈。
「はは、相当に梨穂は嬉しかったようだね」
「そうなら僕も嬉しいです」
良かった。穂貴さんのお墨付きがいただけた。
僕は言うべきことを言ったので、礼ほど伝えて帰ることにした。
「それでは、今日はありがとうございました。また伺います」
「ああ、いつでも来たまえ」
「ありがとうございます。お邪魔しました」
ドアをガチャリと開けると、夏特有の湿気が一気に体を襲った。彼方此方から虫の声が聞こえてくる。
「失礼します」
振り返ってドアを閉めるその間際に言うと、穂貴さんは笑みを浮かべ頷いた。かっこいいなあ。
空は深い青色が大部分を占めていた。しかしながら緋色を帯びた箇所は西にまだしぶとく残っており、曖昧な境界線が明確にそこに刻まれていた。
追記:今見たら日間ランキングに入っててビビりました笑
ありがとうございます!