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僕の発した彼女の名前二文字を最後に、教室は水を打ったような静けさに襲われていた。しかもその前に梨穂が叫びにも近い声を上げたのだから、対比的により一層静かな感じがした。幻聴のような耳鳴りが、幾度となく僕の耳朶内を反響する。
僕は耳鳴りをいなしつつ、この場に投じられるのに最も相応しい文言は何かと思案を巡らせていた。ひょっとすると、他者から見れば何かを言うのに逡巡しているようにも見えたかもしれない。
「なんで……ここに?」
結局、口をついて出たのは単純な疑問一つだった。選択を間違えたかと錯覚するほどに、梨穂の表情は変わる素振りを見せなかった。額から顔、服に隠れた素肌と上から順番に、気持ちの悪い汗が一気に吹き出していったような気がした。
「今は私と三崎君が話してるんだけど」
僕の間違えた選択に、更に追い打ちをかけるように川嶋さんが冷たい声音で言った。曖昧だった空気が明確に緊張を孕んだ。
「だからこそ、来たんだよ」
「だからこそ?」
明らかにイラつきを隠しきれていない声が、川嶋さんの口から発せられる。こういう気まずい空気が張り詰めていると、色んなものに視点を当てて、逸らしてを繰り返してしまう。教壇、机、椅子、机の中に置いてある誰かの教科書……。
そんな行動をしたところで意味があろうはずもなかった。僕が何かしら発言して、そしてこの場をどうにかするのが正解なのだろうが、肝心の「何かしら」と「どうにか」が分からない。抽象性からの脱却はいつまで経ってもできぬままだった。それは、かけらをいくつか失くしたジグソーパズルを完成させようと頑張っているような感覚だった。
「ヒロは渡さない」
僕の思考巡りは、梨穂の強気な一声で終幕を迎えた。その決意の意味するところを悟って、僕は複雑な心持ちになった。
「……勝手なこと言わないでよ!」
「っ!」
聞いたことのないような大音声が、教室を飛び越えて、廊下にも響き渡る。その原因は謂わば3人の間の痴情のもつれである。
「一回振っておいて、やっぱり好きでした、なんて虫が良すぎるよ……」
演劇の一幕でも見ているかのような、緊迫した空間が教室に構築されていた。その直方体の中に役者は3人。今は川嶋さんのターンである。
「私だったら、宏人を幸せにできる。一回傷つけた貴女と違って、私は本気で宏人を想ってるの!」
この上なく幸せなはずのその台詞を、僕は贅沢にも胸が苦しくなる感じを覚えながら聞いてしまった、否、聞かざるを得なかった。
対する梨穂はその台詞を聞くと同時に、顔を顰めて怯んだ。しかし次には首を振って毅然とした表情になる。
「確かに一度、私はヒロを振った。だけど……ヒロがいなくなった途端に、モヤモヤしたの。毎日がつまらなくなったの。身勝手なのは分かってる……だけど」
息を吸う音がして、そうして梨穂はその小さな口を開く。
「私はヒロが……宏人が好き。もう絶対悲しませたりなんかしない」
漸く、分かりやすい言葉を口にしてくれた。僕は一際心臓の鼓動が早まった気がした。梨穂がこの部屋に来たその時から鼓動の音が聴覚を狂わせてきていたが、そいつがより酷くなった。嬉しさと怒りと困惑と、様々な感情がないまぜになって、僕の感情が絵の具ならとっくのとうに灰色である。
川嶋さんはふうとため息を一つ、ピリついた空気の中に溶かした。化学反応でも起こしたが如く、その空気は更に緊張感を増していった。
「宏人、二つに一つだよ。どっちを選ぶの?」
「……っ……」
僕の眼前には、二つのルートが横たわっている。選択というのは、選択肢が少なければ少ないほど迷ってしまう。二者択一。AかBか。僕は迷いに迷って、その二つの前で立ち往生してしまっていた。一度自分を振った幼馴染みか、ありのままの僕を好いてくれる学年一の美少女か。
そこまで考えて僕は、少ない情報量にも関わらず、きっと後者を選んだ方が幸せになれると焦って見当をつけてしまった。僕は梨穂のせいで負わなくていい傷を負った。だから、そう思ってしまった。
「僕は……」
川嶋さん…と続けるために、僕は口を開いた。ドクン、ドクンと鼓動が大きくなる。喉が長期休暇を謳歌していたせいで、声が少しうわずる。視線は行き場を探すように彼方此方に向いて、握り拳にはより一層力が入る。
川嶋さんルート。それがきっと、僕にとって一番いい未来なはずなのだ。そうに決まっている。
筈だった。
「……」
僕は梨穂の顔を見た。今にも泣き出しそうな、不安な顔をしていた……
——それを見た瞬間、
僕は、十数年にわたって脳裏に刻まれた記憶の数々を今一度思い出した。
彼女の怒った顔も、
悲しそうな顔も、
ぼーっとしている顔も、
そして何より、笑っている顔も。
全部全部愛おしくて、愛おしくて、ずっと隣で見ていたいと思ったことを、僕はそこで漸く、漸く遅ればせながら思い出した。
僕らの愚行の数々は、後でゆっくり、二人で精算しよう。
「僕は……僕は!」
——僕の眼前に提示されたルートは二つのようで、本当は一つしかなかった。
どうやら幼馴染みルートしか残されていなかったようで。
×
【川嶋榎視点】
好きな相手に振られた学生が行き着く場所とはどこだろうか。相場は屋上と決まっている。そこで友達に慰めてもらったりするのが定石だ。
生憎私には友達と呼べる存在がいないので、この曇り空に独白をしようと思って、フェンスに身を預けている。
『梨穂と……付き合いたい!』
先ほどの彼の言葉が頭の中を反響する。
「振られちゃったなあ……本当に好きだったのに」
私は自分の容貌に、かなりの自信を持っていた。男子の反応や、今まで告白された回数を鑑みて、自分が相当に可愛いのだと自覚した。だからこそ、振られたのがより一層ショックだった。おかしいなあ。小説とかだと、幼馴染みは負けヒロインで、主人公は美人な子と付き合って……みたいな展開な筈なのに。事実は小説より奇なりってことなのかな。
初めての恋だった。蝉のような、一週間くらいの寿命だったし、振られたけど……それでも楽しかった。色んな気持ちを味わえた。
「でも、そうだよね……中谷さんがつけた傷は、中谷さんじゃないと癒せないもんね……」
屁理屈を言って、複雑な胸中を歪にも復元しようとした。当然無理なわけで、私の独白は徒労に終わる。
ぼーっと空を眺めていると、自然と涙が出てきた。頬が濡れて、やがて地面へとぽつり。夕立の始まりのように、ぽつり、ぽつり。
側から見たらすごくシリアスな場面だなあ、なんて、頬を袖でぬぐいながら思っていた。
その時、
屋上のドアが不躾に開けられた。
「川嶋さん!早まっちゃダメだ!!!」
「え!?ちょ!?」
「うおおおおお!!!」
そこから男子が猛突進でこちらに走ってきて、手を掴まれて抱き寄せられた。バクンバクン、と心臓が跳ねる。
「な、なに!?」
「ふう、良かったー……川嶋さん、大丈夫かい?さっき忘れ物を取りに来たら、すごく思い詰めたような表情をして屋上に向かうのが見えて……あとをついてきたんだ」
彼は私の肩を両手で掴みながら、息を切らして捲し立ててきた。
恐らく、この男子は大きな、大きな勘違いをしている。私が雄大なお空に旅立つと勘違いしている。
「え、えっと……私、別に飛び降りようとは思ってないんだけど……」
「え!?そ、そっかー……つまり、俺の勘違いだったわけだ?」
「そうなるね……ふふ」
ようやく気付いたようだ。この男子は恥じるだろうか、なんだと気を抜かすだろうか。
「良かった!川嶋さんがそんなこと考えてなくて。安心したよ!」
否、私の予測を大きくそれて、サムズアップをしながら安堵していた。この感じは彼と少し似通っている。下心なく、私と話してくれるこの感覚。
私はそこで再び、止まっていた涙を流した。
「え、え、大丈夫?」
「ねえ、少し相談してもいいかな?」
「も、もちろん!」
彼は明るすぎるくらいのテンションで、泣いている私をなんとか励まそうとしてくれている。
「あ、自己紹介がまだだったね。私、川嶋榎。君は?」
「俺は瀬上颯星!よろしく!」
瀬上くんは自己紹介すらとても明るくしてくれた。まるで薄曇りの空に隠れたそれの代わりに、太陽の役割を担っているかと錯覚するほどに、彼は明るく、また暖かかった。
×
【三崎宏人視点】
幼馴染みと付き合い始めて一週間が経った。と言っても日常はあまり変わらない。学校でも付き合っていることは公言しているので、たまに揶揄われるくらいだ。
三崎が中谷と付き合い始めた。その事実は噂として瞬く間に広まった。川嶋さんがフリーであることの証明になったからである。噂が広まるにつれ、男子の顔色が良くなったのが目に見えてわかった。
「瀬上くん、今日も……」
「わかってる。彼女と帰んだろ?てか俺も今日は予定あるから」
「予定?」
「そ。勉強を教えてくれって、とある人に頼まれて」
瀬上くんは指折りの成績優秀者なので、この手の予定がたまに入っている。かく言う僕も時折教えてもらっている。
「ほら、愛しの彼女が待ってるぞ」
「え、あ……」
言われて振り返ると、そこにはどことなく不満げな表情をした梨穂がいた。
「随分仲良さげだね。彼女を待たして」
「ごめんごめん。じゃ、帰ろっか」
「ん」
その表情のまま、梨穂は僕と教室を後にした。瀬上くんにじゃあね、とアイコンタクトを送ると、サムズアップを返してくれた。彼の癖だ。
×
幼馴染みと付き合い始めた。言葉にして仕舞えばこの状況なんていうのは、そんなものの十数文字で事足りる。
そんなもので事足りないくらいの日々を、僕たちはこれから歩んでいく。長い道のりになるか、短い道のりになるかは不明瞭である。
しかし、この思いが冷めることはないんだろうな、と何となく僕は思っていた。一度振られて、それでも思い続けたのだから。梨穂の方も、そう思っていたら嬉しいなと思いながら、横を歩く彼女を見やる。
学校から変わらず、不満げな表情をしている。それも勿論言わずもがな可愛い。だけどやっぱり彼女は笑っている時が一番可愛い。十数年隣にいた僕が言うんだから間違いない。
だから僕は、横断歩道で立ち止まった時に、
「ねえ」
と言って、右手を差し出してみた。誘い文句を言うには恥ずかしくて言えなかった。だけど、それで伝わる気がした。
「……うん!」
彼女はようやく笑顔になって、僕の右手を左手で優しく包み込んだ。暖かくて安心するような、精神に安らぎをもたらす触り心地だった。
あの日と違って、僕らの頭上に広がる半球状のキャンパスには、水色から杏色へと切り替わっていく見事なグラデーションが描かれていた。鳥がその綺麗な空を自由に飛び回る。
僕らの間には、静寂が居座っている。しかし、そこに気まずさなどあろうはずもない。今もつながるこの手が、それを証明している。今どんな顔をしているかなと思って梨穂の顔を見ると、彼女も同じことを考えていたようで、バッチリと目があって、思わず笑い合った。
そんな幸せな時間も、今日はもうあと100メートル分しかない。この右手に宿る温もりも、そこへ辿り着いて仕舞えば明日までお預けである。
残り50メートル……40メートル……と、近づいていき、そして。
「つい……ちゃったね」
「……うん」
互いの家の前、僕らを分かつ終着点に着いてしまった。繋がれた手はするりと解け、温もりはどこかへ旅立ってしまう。
「……それじゃ、また明日」
そう言って、彼女はその手を振って、自宅へと足を進めようとした。
「待って!」
僕は思わず呼び止めて、その手をもう一度掴んだ。温もりが再燃する。
梨穂は少し驚きながら、しかし僕の行動を待っている。
僕は不器用に、その肌理の細かい、透き通るような白い頬に触れる。それの意味するところはただ一つ。
梨穂もそれを理解して、目を瞑った。
僕は顔を近づけて、やがて。
「ん……」
僕らの影は重なって、夕陽がそれを長く、長く伸ばしていた。
あとはエピローグ的なのを数話投稿したい、そのように検討に検討を重ねて参ります。