10
とうとう、その時は来たらんとしていた。ホームルームの終わり際、担任の美原先生が小話を話している。その話が終われば僕は川嶋さんに会いに行って、昼休みの問いに対する解答をしなければならない。その解答は先刻決めたばかりだ。
「よし、じゃあ号令!」
「起立、気をつけ、礼!」
先生の指示で学級委員が号令をかけ、いよいよ僕にとって特別な放課後が始まった。一緒に帰れないことを瀬上くんに伝えてから、僕は教室を出る。さあ川嶋さんのいるクラスへ行こうと、歩き出した瞬間。
「待って!ヒロ!」
「……梨穂……」
僕は思わず振り返って、彼女の名を呟いた。真剣な面持ちをして、それでいてどこか焦っているような感じがした。保健室の一件から話していなかったが、まさか彼女の方から話しかけてくるとは思わなかった。さっき酷い対応をしたせいで、どう会話を交わせばいいか迷う。
廊下は薄暗い。天気は薄曇り、雲に日光が遮られているせいだ。生憎蛍光灯は点っていない。今更つけられるはずもない。
「……時間ある?色々話したくて……」
「……ごめん、用事があって」
「用事、って?」
僕は言葉に詰まった。直球に伝えようと、濁して伝えようと、あまりいい未来は予測できなかったからだ。逡巡したのち、
「川嶋さんと話があるんだ」
「……っ……そう、なんだ」
僕は決して、それで梨穂が納得したようには見えなかった。だけど気づかないふりをして、振り返って再び歩き出そうとした。
その瞬間、僕の体がぐわんと後ろに引き寄せられ、背中に人肌の温もりが宿った。前方にはか細い腕が回されている。
即ち分かりやすく言い換えるならば、僕は梨穂に抱きしめられていた。吐息が首筋に当たって、少しこそばゆい感覚を味わう。
「……行ってほしくない……」
大胆な行動とは裏腹に、呟かれた願いは子供のそれのようなものだった。
「……何で?」
その問いに対する返答はない。ただ、彼女は首を振って、その艶やかな黒髪で空気をかき混ぜている。その度に彼女の甘く、暖かみのある、それでいて少しくらっとくる香りと、無機質な校舎の匂いとが混ざり合った。
僕は漂うその香り、ひいてはこの状態を心地良く思いながらも、首に回された彼女の細い腕を掴み、半ば強引にそこから解放された。
「あ……」
「ごめん、待たせるわけにはいかないから」
「っ……!」
足早にそこを離れる。ほんの一週間前まで、僕らはただの幼馴染みだった。僕が余計な行動をしたせいで、僕らの関係は拗れてしまった。そこに川嶋さんが介入してきて、そいつに拍車がかかって、拗れに拗れてしまった。それこそ、修復不可能な域まで達してしまった。
だから、僕にはこの修復不可能な関係にけじめをつける責任がある。そのためには、もう梨穂にどう思われたっていい……いいんだ。
×
夕暮れと雲とが織りなす幻想的な景色が窓の外に映っていたならさぞ良かったことだろう。今日は曇天。灰一色で美しさの「う」の字もない。この教室に差し込むはずだった西日は分厚い層積雲に遮られている。その傍ら、彼女は自席で、机上のカバンに腕を預けてスマホをいじっていた。
「川嶋さん」
なるべく驚かないように、咳払いをしてから優しく呼んだ。
「!……待ってたよ」
「ごめん。返事、しにきたよ」
川嶋さんは振り返って、苦笑いのような表情を浮かべた。学校に備え付けられた時計はそろそろ17時を指そうとしている。秒針がないため、かちりこちりと秒単位で時間が経過するのを教えてはくれない。
薄暗い教室。光熱費削減のためだとかいって、放課後、教室の電灯は半ば強制的に消される。晴れの日ならば所謂アオハル的な風景になるが、今日みたいにいまいち冴えない空模様の時は、そうもいかない。
そんな雲越しの太陽の光しか光源がない教室で、僕らは目を合わせた。1秒、2秒経つか経たないかくらいで川嶋さんは顔を逸らした。彼女の頬がほんのりと赤く染まって、恥ずかしそうに微笑んだ。僕は彼女と対照的に、彼女の麗しい瞳があった場所を動じずに見続けた。この行動の相違はとりもなおさずお互いをどう思っているかというのを如実に表している。つまるところ、やはり僕は彼女に対して、恋愛感情を抱いていない。
「……僕は」
「待って!!!」
事前に拵えた返事をしようとしたその時、二人きりだった空間に震えた大声が響いた。先ほども聞いた、耳に良く馴染んだその声。僕が聞き間違えようはずもない。
「中谷さん……」
「梨穂……」
先ほど突き放して置き去りにしてきたはずの梨穂が、真剣な表情をして、教室の入り口に立ちすくんでいた。