誰が助けていたのか
これは私が小学生の頃の記憶になる。大人になった今でも、なにかの拍子にふっと思い出すことがある話しだ。
私はいわゆる団塊の世代の子供で、兄妹も多いせいか、人見知りをしない好奇心旺盛な子供だった。
家に帰っても幼い弟妹の面倒を見るのに手一杯な母親には構ってもらえず、見たいテレビを見ようとしても、兄に占拠されていて、邪魔するなといじめられた。
家の中に居場所のない私は、学校の帰り道に、当時あったマイホームセンターの案内所のお姉さんと話すのが好きだった。そして挨拶した後に、冷たい給水器の水を飲んで帰るのが一番の楽しみだった。
当たり前の話しだが家を買うわけでもない。遊びに来るだけの図々しい子供を叱ることもなくて、とても親切で優しいお姉さんが好きだった。
しかし、時代は高度成長期の景気が良い時代、家は瞬く間に売れてしまった。案内所はなくなり、お姉さんとも会えなくなった。私は自分を見てくれる人と居場所を同時に失った。
好奇心旺盛なのは、自分の居場所を探すための生存能力の賜物だったのだろうか。それとも探検好きな心が興味を引くものに目を向けさせるのだろうか。
いつしか私は居場所を作る事に夢中になった。探検隊の基地作りに触発されたのだ。
最初は住んでいる団地の側の前、芝生や植え込みの中にある空間に、壊れた傘やダンボールを拾い集めて基地を作った。拠点にもなってない、屋根がわりのボロ風と、ダンボールの床。
それでも私は満足していた。しかし、その居場所も自転車置場を作る事になって潰されてしまった。植え込みの中に蜂の巣があり、工事の関係者が何人か刺されたらしいと後で知った。
次に基地を選んだのは、学校からの帰り道から少し外れた所にある、看板屋の廃材置場だ。置かれた看板の材質はプラスチックで、いまのアクリル板より劣化しやすく割れやすいものだったと思う。
木材などに比べて軽いとはいえ、子供一人で持ち上げるのは厳しく、私は仲の良い友達二人を誘って基地作りを行った。植え込みの基地と違って、床は土のままだけど、屋根も壁もカラフルで基地らしいものが出来たと喜びあったのを覚えている。
重ねられ束ねられた看板を子供三人で引き抜くだけでも大変な労力だったはずだが、作り上げた達成感と喜びあった記憶だけが強く残る。
あの後、同級生のいじめっ子達に見つかり、基地は奪われてしまった。ただ放置されていた看板置場は危険で、少しの風が吹いても崩れることもあった。私や友達が遊んでいる間は幸いな事に天気も良かった。でもあれから台風のような風の強い日もあった気がする。
いじめっ子達は三人いたはずだったけれど、私の記憶違いなのか二人までしか思い出せないのど。
基地作りを諦めた私は、ある日、学校の帰り道にある生活用排水路に目をやった。
大きな魚が一匹、悠々と泳いでいる姿に目を奪われた覚えがある。興奮した私は家に飛んで帰り、憂鬱そうな母親にその凄さを話して叱られた。煩かったのもあるし、子育てで憂鬱な気分だったのもあるから、叱るのはわかる。
ただそんな大きな魚はいないって否定されて、危ないから近づくなとハッキリ言われたのは覚えている。
嘘じゃないのに、確かに見たのに、そうやって真実を否定され傷ついた経験を持つ人は、私の他にも大勢いると思う。
私は子供ながらに躍起になる。自分は間違ってないことを証明したかった。私の話しなどいつも聞き流すか、寄り道しないでまっすぐ帰って来なさいと叱る母親。うるさいって、拳骨一つで済ますこともある母親が、何でその時だけ注意したのかわからない。
ただ母親の勘なのかお告げのようなものだったのかもしれない。それなのに私は、忠告を聞かなかった。そして翌日の学校帰りに、金網の設置された排水路に近づいた。
昨日見たはずの大きな魚はいなかった。私は嘘じゃないのにと思い焦った。大人になれば、たとえ存在しても、魚がずっと同じ所にいると限らないのは知識としてわかっている。
でも、私は愚かな子供だった。大きな魚はいたんだと証明したい反発心と、認めてもらいたい虚栄心から金網をよじ登り、大人の背丈の倍の高さもある排水路に降りてしまった。
川の深さは見ただけではわからないものだ。整備された排水路も、晴れていれば水量も大した量に見えないけれど、それは大人から見ての話しだろう。
そして水流も上から見るぶんには穏やかなのに、中に入るとぬめりもあって滑って足を取られる。
私はどうしてここに降りようとおもったのだろう。この高さをどうやって落ちずに降りられたのだろう。
工事関係者なら、梯子のある位置を知っていて、簡単に登り降り出来るだろうけれど、私は強い衝動に駆られて金網を乗り越えたため、降りるのも難しくて、排水路に落ちてもおかしくなかった。
ランドセルを背負ったまま、私は理由もわからず泣きながら排水路を歩いた。水に濡れた重さを感じるよりも、壁にへばりつくブヨブヨしたヘドロのような藻の臭いの酷さと手触りにゾッとする。
剝き出しの足には同じくブヨブヨの奇妙な生き物が吸い付く。いくつもの黒い生物がまとわりつき背筋が凍るような恐怖を覚えた。
あの後の記憶が今でも全く思い出せない。まるで記憶ごと消されてしまったように。わかっているのは、この通り無事に大人になったこと、当時を振り返る余裕が出来たことだ。
大人なら今でいうボルタリングの要領で、排水路のコンクリートのブロックの壁の隙間をよじ登るくらいは簡単だったかもしれない。
でも当時のランドセルを背負ったままの低学年の子供が、見上げる以上の高さの壁をよじ登れたとは思えない。
誰が助けてくれたのか、足に吸い付く蛭はどうやって取ったのか、ランドセルが一切濡れていなかったのも不思議でならない。
今ここにいる自分は本当はその時に亡くなっていて、実際は違う子なのでは、そう思う事もあった。母親に、その当時の事を確認してみたけれど、何を言ってるのかわからない顔をされた。
あの後の記憶は定かではない。恐怖心からか、学校の帰り道、排水路へ近づくことはなかったように思う。
トラウマからか、学校の帰りに一人で寄り道をしないようになったものだ。
その後まもなくして転校したために、二度と学校の帰り道にあの場所へ行くことなくなった。
記憶を失い、時の流れに癒やされてあの頃の出来事は幸せな思い出に埋まっている。ただ忘れないでほしいのは、記憶の扉がいつか開かれるかもしれない事だろう。
排水路に入り込んだ子供一人を助けるために、優しいお姉さんが助けに入った。そして足を滑らせ頭を打ち、その排水路で亡くなったという。
当時の新聞の記事は、今も街の図書館の都市計画の歴史に残されたまま、見るものなどなく埋もれて保管されている。
語り手の主人公が幸運だったのか、悲しい記憶を都合良く忘れたのかは、想像におまかせ致します。
お読みいただきありがとうございました。評価等して頂いた方にも感謝です。ホラージャンルの盛り上げの一助になったのなら幸いです。