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【5】デッド・アンド・アライヴ

   ***


 そこから先の記憶は、酷く曖昧なものであった。

 たぶん俺はあの後、警察に通報したのだと思う。時間の概念を忘却していたのでどれくらいかかったのかはわからないが、次に残っている記憶を辿ると、そこで俺は事情聴取を受けていたので、何とか警察を呼ぶことに成功したのだろう。


 もっとも、そこで有益な証言を出来たのかまでは、定かではないが。そもそも、何を話したのかも覚えていない。

 ただおそらくは、警察の方々の貴重な時間を無駄にしたことは確かであろう。だって、第一発見者であり犯人を目撃した俺でさえ、まるで状況を理解していなかったのだから。


 理解していなかったし、理解出来る気もしなかった。

 理解が、考えが、思考が、感情が、あらゆるすべてが、状況の認識を拒絶していたのだ。




 次に目を覚ました時、俺は自室の床に倒れこんでいた。

 何となく目に入った時計が、もうまもなく夕食時を迎えることを示している。閉じっぱなしのカーテンの隙間から差し込む夕焼けが、俺の腕を赤く染めていた。


 呆然と、腕を焼く赤が地平線のかなたに沈むくらいまで天井を眺めた後、腹から漏れた胃を捻じり絞り出したような重低音に反応してか、気が付けば俺はカップラーメンにお湯を注いでいた。

 立ち上がった感覚はなかったし、お湯を沸かした覚えもなかったけど、カップラーメンは出来上がっていた。それが手続き記憶というものなのか、言語を忘れるほどに頭が回らなくなっても――いや、思考が止まっている時こそ、何も考えずに、無意識に出来ることを行うのかもしれない。


 完成したカップラーメンを前に、俺はどこからか取り出したのであろうじゃがりーを口に含む。

 これも習慣のたまものか――いや、カップラーメンを作っておきながらお菓子を食すなんて支離滅裂なことをしているあたり、やっぱりただ何も考えられていないだけなのだろう。たしか、じゃがりーは全部融希が買ってきたものだったっけ? まあ、いつも特に気にすることなく食べてたけど。


 そういえば、昨日もじゃがりーを買いに行ってたんだったな。そういえば、あいつの手元にじゃがりーの入った袋が転がってたな。そういえば、その中にはじゃがりーが二つ入ってたな。あいつ、俺の分も買ってたんだな。酢昆布&オムライス味なんて、絶対合わないっていったのに。

 思い出して、そして吐き出した。さっきまで食べてたじゃがりーと、後はほとんどが胃液だった。ぎりぎりでトイレに駆け込めたから床を汚さずには済んだけど、室内には酸っぱい臭いが充満してしまったので、窓を全開まで開ける羽目になった。


 凍えるような冬はとうの昔に過ぎ去り、桜の咲く季節も末を迎える時期になってはいたが、それでも、日没後の外気の冷たさは冬の残滓を感じさせるものがある。しかし、今日の俺は皮膚感覚まで死んでしまっているのか、窓を開けた後もほのかに気温の低下は実感したものの、身が震えるほどの寒さを感じることはなかった。

 あ、違う、俺が着替えてないだけだ。ブレザーが防寒の役目を果たしていただけだ。なんだ、皮膚感覚は正常だった――いや、今の今までブレザーを着たままだったことに気付けなかったんだから、これはこれで異常なのか?


 空気を入れ替えたことで酸素が規定値まで供給されたからか、止まっていた思考が動き始めた――ような気がして、しかしてそれはただそんな気がしただけで、次の瞬間にはもう、どうでもいいの一言で考えることを放棄していた。

 徹夜の勉強中に寝落ちてしまった時のように。


 思考を放棄したつもりはなかったけど、自然と脳内から言葉が失われていた。

 人間としての尊厳を失い、再び機械のようにプログラムされた通りの行動を再開する。こんな時でも空腹は感じるのだから、俺は人間でも機械でもなくて、単なる獣なのかもしれないな。


 すっかり伸びきったラーメンをすすり、途中で具を入れ忘れていることに気付いたが、特に気にすることもなく食事を終えた俺は、日常をなぞるように――失われた何かを辿るように、服を脱いでシャワーを浴びていた。

 おおよそ二日ぶりくらいの入浴は、被っているシャワーがお湯か冷水かもわからないまま終わり、そこらへんに積み上げられていたジャージを着て、再び床に倒れこむ。窓から吹き込む風が冷たく感じ、こんな寒い時間にどうして窓が開いているのかと疑問に思いながら、窓とカーテンとどちらも閉め切った。


 空腹を満たし汚れを洗い流したからか――あるいは、一刻も早くこんな現実から逃げ出したかったからか――睡魔を覚えた俺は、己の欲求に逆らうことなく、二段ベッドの下段に体を潜り込ませた。

 二段ベッド上段の床を見て、融希はまだ寝てないんだな、じゃあ電気は付けたままにしておくかな、なんて思って。次の瞬間に、融希が死んだことを思い出して、融希の血にまみれた靴を思い出して、融希の転がった首を思い出して、また吐き出しそうになって、慌てて頭から毛布をかぶって視界をシャットアウトする。


 もう何も見たくない。もう何も聞きたくない。

 真っ暗になった世界の中、春の夜風でも感じなかった寒気に体を震わせながら、何度も――何度も何度も何度も何度も、心の中でつぶやき続ける。


 俺の日常を、返してくださいって。

 取り返しのつかない願いなんて、誰の耳にも届きはしないのに。




   ***




 次に記憶が明瞭になったのは――俺の思考が動き出したのは、融希の葬式の場であった。

 融希がこの世を去ってから、どれだけの時間が経過したのかはわからないけど、その間俺が何をしていたかと言われれば、何もしていなかった。


 いや、おそらくはこの空白の時間の間に、再び警察の事情聴取を受けたりとか、食料が尽きたから買い出しに行ったりとか、何かしていたのかもしれない。

 何かしていたのかもしれないけど、何も覚えていなかった。


 幸いなことに、その間学校は土曜日曜を挟んだ休校となっていたため無断欠席にはなっていなかったようだが、こんな状況下で学校だなんて、脳みそが働きだした今でもなお、どうでもいいと思えることであった。

 葬式は粛々と、淡々と進行していった。


 隣で融希のご両親が、顔にハンカチを当てて肩を震わせている。その奥で融希の兄が、悲愴な表情で顔を伏せている。たくさんの喪服を着た人たちと、たくさんの制服を着た人たちが、棺桶の前に立って別れ花を手向けていく。

 彼らの多くは唇を噛みしめていて、彼女らの多くは目に涙を浮かべていて、そんな移りゆく人たちの様子を、俺は親族席の端っこから、乾ききった眼で眺めていた。


 涙など、とうの昔に枯れ果てていた。そして、空間を支配する悲痛な空気に心を動かされ、再び涙があふれ出してしまう――なんてことになれないくらいに、情感もまた正常に稼働してはいなかった。

 脳が働きだした――思考が動きだした。なんて、形の上では言ってはみたものの、より正確に状態を表すならば、それは記憶領域への映像の録画を再開したというだけの話であり、その思考と感情は、未だ正常とは程遠い位置にあった。


 だからこそか。記憶領域のみが無駄に働き始めてしまったせいでか、俺の脳裏にはさっきからずっと、融希の喜ぶ顔が、怒る顔が、哀しむ顔が、楽しむ顔が、焼き付いて離れない。

 目を瞑っても、耳を塞いでも、融希という存在が、俺の脳内で鮮明に再現される。


 粛々と、淡々と進行する葬式の最中、お経を読む声も、すすり泣く声も聞こえず、目の前が徐々に闇に包まれていき、再び五感が現実を拒絶し始めるのを感じて――――


 ――――そして次に五感が情報の記録を再開した時には、俺は葬儀場を後にしていた。

 一瞬、無意識のうちに抜け出してしまったのかと思ったが、既に日が沈み辺り一帯が真っ暗になっていることから、単に葬式が終わって帰路を辿っているだけだと悟る。


 ふと隣を見ると、いつの間に合流していたのか、そこには俺と並んで歩く双月の姿があった。

 知り合いに話しかけられた安心感が要因で、ストレスに蓋をされていた脳みそが、三度活動を再開したのだろうか。だとすれば、最悪のタイミングだった。


「……環、ちゃんとご飯食べれてる? 私はお母さんが作ってくれるけど……環は、寮暮らしだから」


 双月がそう言って、俺のことを気遣ってくれる。

 しかしその顔には――普段なら、眩しいくらいの快活な笑顔が浮かんでいるはずの彼女の顔には、一切の笑みがない。眼球は赤く充血し、目元には大きなくまが出来ていて、表情は目も当てられないほどに痛々しく、疲れ切ったものであった。


「もしよかったら……今日は、うちにくる……?」


 いつもなら、諸手を挙げて賛成していたのかもしれないけど、今日ばかりはそんな気分にはなれなかった。

 いや、今日ばかりじゃない。明日も、明後日も、これから先もずっとだろう。


 俺達はもう、いつも通りになんて戻れないのだから。


「そっか……じゃあ私、こっちだから……」


 消え入るような声で別れを告げた双月は、こちらを振り向いて小さく手を振った後、重たい足取りで体を引きずるように、T字路を曲がって歩いていく。去りゆく彼女の背中は普段の様子からは考えられないくらいに弱々しく、一歩踏み外せば二度と立ち上がれないのではと思うくらいに、か細い存在に見えた。

 本当なら、俺は男として彼女を自宅まで送ってあげるべきなのだろう。けど、今の俺には、そんな最低限の振る舞いすら、することが出来なかった。


 見ていられなかったから。彼女の弱った姿も。そんな彼女以上に弱った、自分の姿も。

 俺はまた、逃げ出したのだ。直視すべき現実から――失ってしまった日常から。


 ふらふらと、おぼつかない歩みで、足元の照らされない夜道を進む。そこは、最後に見たあの路地裏と同じくらいに暗くて、唐突に血にまみれた景色がフラッシュバックをし、思わずまた吐き出してしまいそうになる。

 双月と別れた後でよかった。こんな姿を見せたら、あいつは自分が憔悴していることも忘れて、俺の心配ばかりをしてしまうだろうから。


 コンクリートの壁にもたれかかり、呼吸が安定するのを待ってから再び歩み出し、数歩歩いたところでまた吐き気に襲われ、壁にもたれかかるの繰り返し。うさぎとかめの悪い部分だけを受け継いでしまったような容態に、思わず乾いた笑みがこぼれてしまうが、現実問題この調子では、本気で家に辿り着く前に一眠りしてしまうかもしれない。そうなってしまえば、うさぎと違って俺に待っているのは、絶対にゴールに辿り着くことの出来ないままに終わる、永遠の眠りだ。

 相変わらず時間の概念が消失しているため、どれくらいの時間この蛇行を継続していたのかはわからないが、そろそろ俺の肉体も限界が近かった。眼前に死が迫っているせいか、いい加減無意識ではいられなくなった思考が急激に活発になり始める。それが原因でかは知らないが、無駄な独り言が増え、後は多少の幻覚が見え始めてきた。


 幻覚。そう、幻覚だ。

 そうに決まっている。そうでなくては、説明がつかない。


 だって、こんなことが、現実にあるのだろうか。

 それが――その幻覚が、視界の隅に移り始めたのは、壁への自重全力乗せタックルが、体感で三ケタに達したんじゃないかと思ったくらいのことだった。




 ――――道端に、美少女が転がっていた。


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